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平安時代一問一答・全問題

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問題答え
平安時代はいつからいつまで?一般的に平安時代は、平安京遷都(794年)から鎌倉幕府成立までの期間
794年桓武天皇(かんむてんのう)が遷都した都は?平安京(へいあんきょう)
792年軍団制のかわりとなった新たな兵制は?健児制(こんでいせい)
797年に征夷大将軍に任命され蝦夷(えみし)の討伐を行った人物は?坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
797年に設置された国司交替の際に審査を行う令外官(りょうげのかん)は?勘解由使(かげゆし)
810年天皇と上皇の対立から生じた政変は?薬子の変(くすこのへん)
天皇の側近として勅命や上奏を管理した官職は?蔵人頭(くろうどのとう)
嵯峨天皇の時代に京の治安維持を目的に設置された官職は?検非違使(けびいし)
格式とは何でしょうか?また三代格式の名称も答えてください律は刑法、令は刑法以外の法令(行政法や民法など)
三代格式とは弘仁格式、貞観格式、延喜格式の総称
人臣で初めて摂政(せっしょう)に就任した人物は?藤原良房(ふじわらのよしふさ)
842年橘氏、伴氏(大伴氏)が失脚した事件は?承和の変(じょうわのへん)
866年伴氏(大伴氏)と紀氏が没落するきっかけとなった放火事件は?応天門の変(おうてんもんのへん)
日本で最初に関白(かんぱく)に就任した人物は?藤原基経(ふじわらのもとつね)
887年関白を任命する勅書の文言が原因で起こった事件は?阿衡事件(あこうじけん)・阿衡の紛議(あこうのふんぎ)
天皇自身が政治を行うことを何と呼んでいますか?親政(しんせい)・天皇親政(てんのうしんせい)
894年 遣唐使の派遣を停止した人物は?菅原道真(すがわらのみちざね)
菅原道真を大宰府に左遷したとされる人物は?藤原時平(ふじわらのときひら)
902年勅旨田(ちょくしでん)の開墾などを禁止した法令は?延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)
醍醐天皇、村上天皇が行った親政は?延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)
969年に起こった政変と失脚した人物は?源高明(みなもとのたかあきら)、安和の変(あんなのへん)
平安時代 藤原氏の他氏排斥事件を年代順にあげてください810年薬子の変・・・藤原冬嗣によって藤原仲成は殺害され、薬子は自殺
842年承和の変・・・藤原良房によって伴健岑と橘逸勢が流罪
866年応天門の変・・・藤原良房によって伴善男が流罪
887年阿衡の紛議・・・藤原基経によって橘広相が失脚
901年昌泰の変・・・藤原時平によって菅原道真が左遷
969年安和の変・・・藤原師尹によって源高明が左遷
天皇の外戚となった藤原氏が行った政治を何と呼んでいますか?摂関政治(せっかんせいじ)
摂政、関白に任命される家柄を何と呼んでいますか?摂関家(せっかんけ)
安和の変以後に起こった藤原北家の権力争いで対立した人物は?兼通と兼家、道長と伊周
法成寺(ほうじょうじ)を建立して御堂関白(みどうかんぱく)と呼ばれた人物は?藤原道長(ふじわらのみちなが)
平等院鳳凰堂を建立して宇治関白(うじかんぱく)と呼ばれた人物は?藤原頼通(ふじわらのよりみち)
「この世をば~」で始まる藤原道長の「望月の歌」が記載されている日記と書いた人物は?小右記(しょうゆうき)、藤原実資(ふじわらのさねすけ)
1019年海賊船が博多湾に侵入した事件は?刀伊の入寇(といのにゅうこう)
939年関東で起きた反乱の名称は?平将門の乱
939年瀬戸内海の海賊が起こした反乱は?藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)
1028年平氏が関東で起こした反乱は?平忠常の乱(たいらのただつねのらん)
1051年陸奥国で起きた反乱は?前九年の役(ぜんくねんのえき)
1083年出羽の清原氏の内紛から起こった争乱は?後三年の役(ごさんねんのえき)
八幡太郎(はちまんたろう)と呼ばれた源氏の武将は?源義家(みなもとのよしいえ)
争乱の鎮圧、盗賊や海賊の討伐などを任務とする令外官は?押領使(おうりょうし)と追捕使(ついぶし)
武士の棟梁に仕えた家臣たちを何と呼んでいますか?家の子(いえのこ)、郎党(ろうとう)
内裏の警備を担当した武士は?滝口の武士(たきぐちのぶし)
1068年に即位した藤原氏を外戚としない天皇は?後三条天皇(ごさんじょうてんのう)
1069年の荘園整理令とそのとき設置された機関の名称は?延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)
後三条天皇の荘園整理令で使用された枡(ます)は?宣旨枡(せんじます)もしくは延久の宣旨枡
上皇(じょうこう)や法皇(ほうおう)が政治を行う形態は?院政(いんせい)
実子堀河天皇に譲位をして院政を始めた人物は?白河上皇(しらかわじょうこう)
直系の子や孫に皇位を継がせ政治を行った上皇をさす言葉は?治天の君(ちてんのきみ)
院政で上皇(法皇)が政務を執る役所は?院庁(いんのちょう)
院政で院(上皇)の命令を文書にしたものは?院宣(いんぜん)
天皇の命令書 詔勅、詔書、勅旨、宣旨、綸旨、勅令、勅命の違い・詔勅(しょうちょく)・・・天皇の命令を伝える公式文書の総称が詔勅で、詔勅には詔書と勅旨(勅書)がある
・詔書(しょうしょ)・・・天皇の命令である詔(みことのり)を文書化したもの。天皇と公卿全員の署名が必要
・勅旨(ちょくし)、勅書(ちょくしょ)・・・特定の個人または機関に対して発給された文書。平安時代になると手続きを簡略化した宣旨や綸旨が増加します
・宣旨(せんじ)・・・天皇の命令を蔵人→上卿→外記・弁官の手順を経て文書化
・綸旨(りんじ)・・・天皇の命令を蔵人が文書化。建武の新政の混乱を皮肉った「二条河原の落書」によって謀(にせ)綸旨が乱発されていたことがわかる
・令旨(りょうじ)・・・皇太子、太皇太后、皇太后、皇后の命令を伝えるための文書。平安時代末の以仁王の令旨が有名。以仁王は皇太子ではないので本来は令旨を発行できない
・勅令(ちょくれい)・・・大日本帝国憲法によって規定された天皇の命令。天皇の権限で議会にかけずに制定できる
・勅命(ちょくめい)・・・大日本帝国憲法下における勅令以外の天皇の命令
院政で院(上皇、法皇)の側近を何と呼んでいますか?院の近臣(いんのきんしん)
平安時代の滝口の武士、北面の武士、鎌倉時代の西面の武士の役割は?・滝口の武士(たきぐちのぶし)・・・9世紀末 宇多天皇によって設置。天皇の護衛、宮中の警備を担当した武士で10名~30名で構成。主に武士団の棟梁が任命された
・北面の武士(ほくめんのぶし)・・・11世紀末 白河上皇によって設置。治天の君(上皇、法皇)の護衛、院の警備を担当した武士で院の直属軍。腕に覚えのある貴族や武士が任命された。最盛期は1,000名以上の兵力があったとされています
・西面の武士(さいめんのぶし)・・・13世紀初頭 後鳥羽上皇によって設置。職務は北面の武士と同じで院の直属軍。院の武力を増強する目的で新設されました。主に西国、在京の御家人で構成され兵力は不明。鎌倉幕府との戦い(承久の乱)では、北面、西面ともに朝廷方として戦いますが敗北。乱後に西面の武士は廃止されました
院政期と呼ばれる院政の最盛期を築いた3人の上皇は?白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇
院政の財政基盤となった代表的な荘園郡は?八条院領と長講堂領
未開墾の土地を開墾して所有者となった者は?開発領主(かいはつりょうしゅ)
荘園の領家(りょうけ)、本家(ほんけ)、開発領主の関係は?開発領主・・・未開墾地を開墾した土地(荘園)の最初の所有者
領家・・・開発領主から荘園の寄進を受けた、土地の実質的な所有者(貴族や寺社)
本家・・・領家から荘園の寄進を受けた名目上の所有者(摂関家や皇族)領家から名義料を受け取る
荘官、預所、預所代、下司、公文、荘民の関係性や違いは?荘官(しょうかん)・・・荘園の所有者(領家)から任命され、現地で荘園を管理する人たちの総称
預所(あずかりどころ)・・・荘官の構成員で荘官の責任者。領家から派遣されたり、在地の領主や開発領主が任命されました
預所代(あずかりどころだい)・・・管理する荘園が複数あり、預所だけでは対応できない場合に代官として預所代を置き荘園を管理させました
下司(げし)と公文(くもん)・・・荘官の構成員で実務を行う下級役人を下司といいます。下司の中で、文書の記録や管理を担当する役人が公文です
荘民(しょうみん)・・・荘田を耕作する農民
初期荘園の特徴と衰退した原因は?初期荘園の所有者は開墾した土地を農民に貸して収穫物の20%をレンタル料として徴収することで利益を得ました。農民は荘園の所有者へ20%の賃料を払い、さらに国に治める租税を引いた残りが自分の収入となります。このように初期荘園は賃祖で成り立っているため、安定的に労働力を確保するには班田農民を管理する国司や郡司の協力が必要となります。しかし、重税による農民の逃亡が全国に広がると、戸籍や計帳の作成が困難となり班田収授が崩壊します。班田農民の労働力で成り立っていた荘園の経営は行き詰まり、初期荘園は衰退していったのです。
租税の免除や国司の介入防止を目的に成立した荘園は?寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)
不輸の権、官省符荘、国免荘を簡潔に説明してください。不輸の権(ふゆのけん)・・・租税が免除された荘園
官省符荘(かんしょうふしょう)・・・太政官、民部省から租税免除の許可を得た荘園
国免荘(こくめんのしょう)・・・国司の許可で租税が免除された荘園
不入の権(ふにゅうのけん)・検田使(けんでんし)とは?不入の権(ふにゅうのけん)・・・国司が派遣する役人の荘園内への立入りを拒否できる権利
検田使(けんでんし)・・・荘園を調査するため国司が派遣する役人
鹿子木荘(かのこぎのしょう)とはどのような荘園ですか?鹿子木荘は肥後国あった荘園で、寄進地系荘園の代表的な例としてよく登場します。鹿子木荘は元々沙弥寿妙(しゃみじゅみょう)という人物が開墾した荘園です。開発領主である沙弥寿妙は、子孫に鹿子木荘を継承させますが、高方の代に国司から干渉を受けるようになりました。高方は太宰大弐であった藤原実政(ふじわらのさねまさ)に名義代として400石を払い鹿子木荘を寄進します。寄進後も高方は預所として荘園を管理しますが、実政と嫡子が失脚する事件がおこり藤原公実→藤原経実→藤原隆通(願西)と鹿子木荘の相続者が変遷します。政治的な力の弱い願西が相続すると国司からの干渉が強まったため、願西は200石を納め高陽院(かやのいん)内親王に荘園を寄進して干渉を排除しました。願西が領家、高陽院内親王が本家ということになります。高陽院内親王は鳥羽上皇の皇女です。
鹿子木荘寄進の経緯を記した文書は?東寺百合文書・鹿子木荘条々事書(とうじひゃくごうぶんしょ・かのこぎのしょうじょうじょうごとしょ)
荘園と国衙で構成された土地制度は?荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)で
国衙領の郡司、郷司、保司の役割は?国衙領の行政単位は律令制の郡郷制でしたが、新たに開墾した土地を保という行政単位で管理したことから、郡、郷、保という単位での再編が行われました
公領や荘園の耕作を請け負った農民は?田堵(たと)、名主(みょうしゅ)
班田制の崩壊と田堵による名田経営について8世紀から9世紀にかけて重税や兵役から逃れるため浮浪、逃亡する農民が増加します。戸籍や計帳を基に租・庸・調・雑徭を課すシステムが維持できなくなった朝廷は、課税の対象を人から土地に移行します。公田(口分田)を名(みょう)もしくは名田(みょうでん)に改め、名を課税の対象としたのです。さらに名の運営は田堵と呼ばれていた富裕層の農民に委託しました。名の運営を請け負った田堵は、負名(ふみょう)や名主(みょうしゅ)と呼ばれ、農民から年貢を徴収して朝廷に納税する責任を負います。朝廷は戸籍や計帳で国民ひとりひとりを管理しなくても、名や田堵(名主)の管理を行うことで徴税できたのです。11世紀中頃になると国衙領(公領)だけでなく、荘園にも名が拡大します。荘園の名田経営も請け負うようになった名主は荘園公領制の中で重要な役割を担いました。
地方豪族、郡司、田堵(たと)の関係を簡潔に説明してください律令制以前は有力な豪族がそれぞれの地域を支配していました。律令制が開始されると、土地と人民はすべて天皇(朝廷)のものとなり(公地公民)、地方豪族の多くが郡司に任命されます。中央から派遣される国司の元で郡司は税の徴収などを担当するようになりました。9~10世紀になると田堵と呼ばれる人たちが登場してきます。この田堵は元郡司や郡司の一族だった人たちです。元々富農層であった田堵は私出挙で貧しい農民から高利の利息をとり富を蓄財していました。10世紀になると朝廷は課税の対象を人から土地に変更します。口分田を名(名田)と改め、名の経営を田堵に請け負わせることで徴税を行いました。やがて荘園の運営にも関わるようになった田堵は、荘園公領制を支える重要な役割を担うことになります。
田堵(たと)、名主(みょうしゅ)の収入源は?田堵(名主)の収入源としてあげられるのは私出挙、加地子、免田です
受領(ずりょう)、任用国司(にんようこくし)とは?律令制では日本を66国2島に分け、国司を派遣して諸国を統治しました。国司には守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四等官があり、長官が守です。四人の幹部が連帯責任で国を統治していたのですが、9世紀中頃になると逃亡する農民の増加により班田制が崩壊します。税収の落ち込みにより財政が悪化した朝廷は、確実に徴税を行うため、ひとりの国司に権限を集中させて責任を負わせるようにしたのです。この権限が強化された国司が受領です。
任国に赴任しない国司と、国司のかわりに派遣される者は?遥任国司(ようにんこくし)、目代(もくだい)
私財を納めた者に官職や位階を与えることを何と呼んでいますか?売官(ばいかん)・売位(ばいい)
私財を朝廷に納めて国司に任命してもらうのは?成功(じょうごう)と重任(ちょうにん)
「受領は倒るるところに土を掴め」とは?「受領は倒るるところに土を掴め」は、「今昔物語集」の中に登場する、信濃国司 藤原陳忠(ふじわらののぶただ)に関する説話
989年百姓たちの訴えによって尾張国司(受領)を解任された人物とこのとき提出された訴状の名称は?藤原元命(ふじわらのもとなが)、尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)
官吏の殺害で追討され源氏が一時衰退する原因をつくった人物は?源義親(みなもとのよしちか)
伊勢平氏が中央政界に進出するきっかけをつくった人物は?平正盛(たいらのまさもり)
海賊討伐の功績で清涼殿への昇殿が許された平氏の武将は?平忠盛(たいらのただもり)
武家として初めて太政大臣(だいじょうだいじん)になった人物は?平清盛(たいらのきよもり)
1156年に起きた乱の名称と対立した上皇と天皇は?保元の乱(ほうげんのらん) 崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇(ごしらかわてんのう)
1156年に起きた乱で対立した摂関家の人物は?藤原忠通(ふじわらのただみち)と藤原頼長(ふじわらのよりなが)
1156年の乱で戦った源氏と平氏の武将は?後白河天皇方・・・平清盛(たいらのきよもり)、源義朝(みなもとのよしとも)
崇徳上皇方・・・平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためよし)、源為朝(みなもとのためとも)
1159年の乱で争った武家と貴族は?平治の乱(へいじのらん)
武家・・・平清盛対源義朝
貴族・・・藤原信西(通憲 みちのり)対藤原頼信
平氏一門の館があった場所は?六波羅(ろくはら)もしくは六波羅館(ろくはらやかた)
平氏の財源となった貿易と港の名称は?日宋貿易(にっそうぼうえき) 大輪田泊(おおわだのとまり)
南都北嶺(なんとほくれい)とは?南都は興福寺(こうふくじ)、北嶺は延暦寺(えんりゃくじ)
僧兵の強訴と神木(しんぼく)、神輿(しんよ)とは?南都北嶺と呼ばれた興福寺と延暦寺は、所有する広大な荘園から入る収益で武装化を進めました。この武装した僧侶を僧兵といいます。僧兵という名称はのちにつけられたもので、当時は悪僧や衆徒と呼ばれていました。悪は「強い」という意味です。興福寺や延暦寺は自分たちの要求を朝廷に受け入れさせるために、京に向かい大行進を行います。これを強訴といいます。強訴を行う場合は、神木や神輿を先頭にかかげました。神木は神体もしくは神霊の宿った木、神輿は神霊を安置したり移動するときに使用する輿(こし)です。神木と神輿はどちらも神聖視され、みだりに触れたり、傷つけたりすると神罰や仏罰を受けるとされてきました。そのため強訴が起こると誰も手出しをすることができず、興福寺や延暦寺の要求を受け入れることが多かったのです。朝廷は強訴対策として神罰や仏罰を恐れない武士を登用して対応にあたらせました。
小松内府と呼ばれた平清盛の子は?平重盛(たいらのしげもり)
1177年に起きた平氏打倒の企ては?鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)
1180年平氏打倒の令旨(りょうじ)を発して挙兵した皇族は?以仁王(もちひとおう)
1180年平氏打倒の兵を挙げた摂津源氏の武将は?源頼政(みなもとのよりまさ)
1180年伊豆で挙兵した源氏の武将は?源頼朝(みなもとのよりとも)
以仁王の令旨を全国の源氏に届けた人物は?源行家(みなもとのゆきいえ)
1180年 挙兵した源頼朝が大庭景親たち平氏の軍勢に敗れた戦いは?石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)
水鳥が飛び立つ羽音に驚いた平氏軍が敗走した戦いは?富士川の戦い(ふじがわのたたかい)
砺波山(となみやま)で平家軍と戦い勝利した源氏の武将は?源義仲(みなもとのよしなか)・倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)
義仲追討の院宣を得て京に侵攻した源氏の武将二人の名前は?源範頼(みなもとののりより)と源義経(みなもとのよしつね)
鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの逸話が残る1184年に行われた合戦は?一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)
1185年讃岐国で行われた源平の合戦は?屋島の戦い(やしまのたたかい)
1185年平家が滅亡した戦いと入水(じゅすい)した天皇は?壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)、安徳天皇(あんとくてんのう)
壇ノ浦の戦いで海中に没した天皇家の宝物(ほうもつ)は?天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
南都焼討ちの報復で壇ノ浦の戦い後に斬首された武将は?平重衡(たいらのしげひら)
平家滅亡後、兄頼朝と対立関係になった義経を匿った奥州の武将は?藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
1189年奥州藤原氏が滅亡した戦いは?奥州合戦(おうしゅうかっせん)
治承寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)の主な戦いを年代順にあげてください1180年以仁王、源頼政の挙兵(以仁王、頼政ともに討死)、源頼朝挙兵(石橋山の戦い)、源義仲挙兵、富士川の戦い
1181年平清盛死去
1183年倶利伽羅峠の戦い
1184年粟津の戦い(義仲討死)、一ノ谷の戦い
1185年屋島の戦い、壇ノ浦の戦い(平家滅亡)
1187年藤原秀衡死去
1189年衣川の戦い(源義経自害)、奥州合戦(奥州藤原氏滅亡)