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坂本龍馬と後藤象二郎 船中八策と大政奉還

後藤象二郎の画像
*土佐藩参政 後藤象二郎

いろは丸事件の賠償交渉に目途をつけた龍馬は、土佐藩参政後藤象二郎とともに藩船「夕顔丸」に乗船し神戸を目指します。


その船中で後藤象二郎に提唱したのが船中八策といわれるものです。船中八策は、龍馬が考える新しい国の仕組み、国家構想であり 「徳川幕府は朝廷に政権を返上し、議会を設置する」などの基本指針を示したものとされています。


この船中八策は、同船した海援隊士長岡謙吉によって記録されたようですが、その存在は確認されていません。


大政奉還の思想は、以前に幕臣の大久保一翁が唱えていました。ただし、一翁の大政奉還は政権を一時的に朝廷に返上することで、攘夷を唱える朝廷や尊皇攘夷派の志士たちを現実路線に転換させるための策でした。


龍馬の提案を聞いた後藤象二郎はただちに山内容堂に進言します。容堂はこの案を土佐藩の藩論として大政奉還の建白書を作成します。容堂は、1867年10月3日に15代将軍徳川慶喜のもとに後藤象二郎と福岡孝弟を派遣して建白書を提出します。


慶喜と幕府重臣たちの協議の結果10月14日に大政奉還の上奏文を朝廷に提出、翌15日に勅許が下り大政奉還が実現します。


政権を朝廷に返上した慶喜でしたが、これまで同様に国政は徳川家が担当するという考えでした。あくまで倒幕派の勢いをかわすための策であったのです。


これに対して倒幕派は、徳川家の官位と領地も朝廷に返上するよう求めます。400万石を誇る徳川家の財力と兵力をそのままにさせるわけにはいかなかったのです。この辞官・納地問題がこじれて、やがて戊辰戦争へと突入していきます。


船中八策を提案して大政奉還に尽力した龍馬ですが、大政奉還が実現した翌月に刺客の手にかかりその生涯を終えることになります。

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