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四境戦争と大村益次郎(おおむらますじろう)

四境戦争 大島口、芸州口、石州口、小倉口
*四境戦争(第二次長州征伐) 大島口、芸州口、石州口、小倉口

功山寺挙兵、太田・絵堂の戦いで俗論派を打ち破った高杉晋作たち正義派は藩内の権力を掌握します。


禁門の変以降但馬国に逃れていた桂小五郎が萩に戻り藩論は武備恭順に統一されました。表面上は幕府に従いながらも、裏では戦うための準備を刻々とすすめる長州藩!


幕府も様子がおかしいことに気づき密かに探索を開始します。やがて正義派が政権をとり藩論が転換されたことを知ると、毛利敬親父子と五卿を江戸に呼びつけて事の真相を問いただそうとします。


長州藩では坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で敵対していた薩摩藩と同盟を締結することに成功します。薩摩藩を経由して新式の武器を大量に確保したことで幕府との対立姿勢を強めていきます。


さらに幕府は領地10万石の削減と毛利敬親父子の隠居を通知しますが、薩長同盟を結んだ長州は幕府の命令に応じることはなく幕府軍を迎え撃つ体制を整えました。


業を煮やした幕府は、再び長州攻めを決定し14代将軍徳川家茂自らが出陣したのです(第二次長州征伐)


長州藩は大村益次郎(おおむらますじろう)を参謀に登用して幕府軍に対する作戦を立案させます。

大村益次郎(おおむらますじろう)
*大村益次郎(おおむらますじろう)

大村益次郎は1824年周防国鋳銭司村(すおうのくにすぜんじむら)で、大村孝益(おおむらたかます)の長男として誕生しました。


父 孝益は医者であったため、益次郎は幼少の頃から蘭学を学びます。豊後国日田にある広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)で学び、さらに、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入り塾頭をつとめるほどになります。


蘭学や兵学を学んだ大村はやがて宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)に認められます。100石どりの待遇で宇和島藩に招かれた大村は豊富な知識で軍制の整備や軍艦の製造にも携わります。


1856年には幕府講武所(こうぶしょ)の教授に就任しています。講武所は幕府が創設した軍事訓練所です。


大村の他には、高島流砲術の高島秋帆、剣豪の男谷精一郎(おだにせいいちろう)や榊原鍵吉(さかきばらけんきち)が教授に任じられました。勝海舟(かつかいしゅう)も教授として砲術を教えています。


そうそうたる顔ぶれの中で実績を積み上げていった大村は1860年に長州藩に招かれます。


長州藩の軍制改革に着手した大村は四境戦争では参謀に登用され石州口(せきしゅうぐち)で幕府軍を撃退!さらに、浜田城を陥落させるなど大きな活躍をみせます。


四境戦争(しきょうせんそう)という呼称は長州領に面する4つの国境 大島口(おおしまぐち)、芸州口(げいしゅうぐち)、石州口(せきしゅうぐち)小倉口(こくらぐち)で戦いがおこわなれたことからそう呼ばれました。


幕府側に立った場合第二次長州征伐ですが、長州側に立った場合は四境戦争となります。


幕府軍は10万を超える軍勢で長州領に攻め込もうとします。これに対し長州藩では政務座役 桂小五郎、海軍総督 高杉晋作、参謀 大村益次郎を中心に奇兵隊などの諸隊が一致団結して防衛に当たりました。


四境戦争は幕府の大島口への奇襲攻撃で戦端が開かれ、その後、芸州口、石州口、小倉口へと拡大していきます。

■大島口の戦い・・・幕府は松山藩、宇和島藩、徳島藩、今治藩に出陣を命じますが、兵を出したのは松山藩のみであり、松山藩と幕府歩兵隊、軍艦で大島口に奇襲をしかけました。

長州は農民兵およそ500で防衛しますが、2000を超える幕府軍に対抗できずに劣勢に立たされます。大村益次郎は兵力の分散を避けるために大島口の放棄を考えますが、地元住民の反感を恐れた桂小五郎が高杉晋作と第二奇兵隊を派遣します。

高杉は丙寅丸に乗船し休息している幕府艦隊に奇襲攻撃をしかけ成果をあげます。その後、林友幸(はやしともゆき)、世良修蔵(せらしゅうぞう)の第二奇兵隊が幕府軍と一進一退の攻防を展開し、最終的には大島口から幕府軍を撤退させ勝利します。


■芸州口の戦い・・・長州藩は岩国領(岩国藩)の吉川経幹を総督とする岩国兵と遊撃隊、御楯隊、干城隊などの諸隊1000人で防備にあたりました。

幕府軍は彦根藩、紀州藩、高田藩、幕府陸軍で構成されその兵力は50000といわれます。国境にある小瀬川を渡河する彦根藩兵に向かい長州が発砲したことで戦闘が開始されます。

ミニエー銃を装備した長州兵は数では劣るものの、よく訓練された兵士たちの正確な狙撃により彦根藩兵を狙い討ちにしました。

戦国時代さながらの兜と鎧、弓、槍、火縄銃で隊列をつくり渡河する彦根藩に対し、軽装の長州兵はゲリラ戦を展開します。混乱する彦根藩も隊列を立て直し反撃を試みますが武器の性能の違いは大きく、多くの犠牲者を出して後退します。

勢いにのる長州軍は宍戸備前が四十八坂に布陣している紀州藩に対し攻撃をしかけますが、ミニエー銃を装備していた紀州藩の抵抗にあい混戦となります。

膠着状態となった芸州口では、幕府側の代表 勝海舟と長州側の代表 広沢兵助(広沢真臣)との間で交渉が行われ停戦となりました。


■石州口の戦い・・・長州藩は参謀大村益次郎が南園隊、精鋭隊、清末藩兵およそ1000人を率いていました。

幕府軍は紀州藩重臣の安藤飛騨守が石州口総督となり、浜田藩、福山藩、松江藩、紀州藩、鳥取藩などで構成された兵力30000で長州と対峙します。

幕府の主力は浜田藩です。浜田藩主 松平武聡(まつだいらたけあきら)は徳川慶喜の弟ですが、このときは病気であったため戦の指揮をとることができませんでした。

数では圧倒的に有利な幕府軍ですが、実際に戦ったのは浜田藩と福山藩で、応援の紀州藩、松江藩、鳥取藩は戦意が乏しくほとんど戦う気がありません。大村益次郎率いる長州軍は敵の主力である浜田城目指して進軍を開始!

途中にある津和野藩は長州との戦いを避けるため領内の通行を認めましたが、浜田領の関所を守っていた浜田藩士 岸静江(きししずえ)が通行を拒否したため、長州軍の発砲により命を落とします。

浜田領内に侵攻した長州軍は大村の巧みな戦術で抵抗する浜田藩兵、福山藩兵を撃破しました。幕府軍の石州口総督安藤直裕(安藤飛騨守)は浜田城からの退却を決定してしまうありさまで、これに続き鳥取藩、松江藩も浜田から退却してしまうのです。松平武聡は城に火を放ち松江へと亡命します。


■小倉口の戦い・・・長州藩は海軍総督 高杉晋作が奇兵隊、報国隊などの諸隊およそ1000人を率いて小倉城の攻略にあたります。

対する幕府軍は小倉藩、熊本藩、久留米藩、柳川藩などおよそ20000人の兵力が集結しました。20倍の兵力を相手にまともに戦っては勝ち目がないと考えた高杉は小倉城への奇襲攻撃をしかけます。

奇兵隊、報国隊が海を渡り小倉藩領内に上陸すると、田野浦海岸を守る小倉藩兵との間で戦闘が開始されました。最新の銃器を装備し戦慣れしている長州藩は小倉藩兵を翻弄して緒戦に勝利します。

一度下関に戻った長州藩は再び渡海して小倉口の拠点大里を攻撃します。小倉藩も必死の抵抗を見せ何度か撃退しますが、長州軍の勢いに押され敗走します。大里を攻略した長州軍ですが敵領内に長居する危険を避け下関に戻ります。

7月27日長州軍は三度目の渡海をして小倉に攻め込みました。大里まで進軍した長州軍は高杉が大里に陣取り奇兵隊、報国隊を二手に分けて海岸沿いと山間部から小倉城を目指す作戦をとります。進撃を続ける長州でしたが、小倉城に通じる要所の赤坂口と大谷口には熊本藩が待ち構えていました。

これまで2回の戦いでは日和見をしていた熊本藩でしたが、今回は万全の態勢で長州を迎え撃ったのです。最新の銃器を装備していた熊本藩は長州に対し一斉砲撃を開始します。

雨のように降り注ぐ銃弾に多くの死傷者を出した長州軍は撤退を余儀なくされました。三度目にしてようやく長州軍を敗走させた幕府でしたが、14代将軍徳川家茂が大坂城で逝去したとの知らせを受けた小倉口総督の 老中小笠原 長行(おがさわらながみち)は密かに軍艦に乗船して戦線を離脱してしまうのです。

残された諸藩兵も自分の国に帰国したため小倉口には小倉藩と長州藩のみが残ることになったのです。

自分たちだけでは守りきれないと考えた小倉藩は城に火をかけ山間部に撤退します。8月21日に家茂の死が公表され第二次長州征伐は中止となります。

その後も小倉藩はゲリラ戦を展開して半年ほど戦い続けましたが、薩摩藩などの仲介により長州との間に和議が結ばれました。

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