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花燃ゆ・杉文(すぎふみ)の生涯 コンテンツ一覧

楫取素彦と美和(文)の再婚、男爵授与から晩年の生活まで

1883年5月楫取素彦と美和(文)は再婚しました。素彦と美和の再婚については史料がほとんどないため詳細な経緯はわかっていません。 妻の寿を亡くしてから2年間群馬県令として多忙な

楫取寿(かとりひさ)仏教(浄土真宗)への信仰心と死

楫取素彦(かとりもとひこ)は1872年に足柄県に出仕することになり、家族を残し単身で上京しました。 1874年には熊谷県権令(副知事)となりますが、この頃になると家族を呼び寄せ

楫取寿(寿子)兄松陰の形見の短刀を新井領一郎に託す!

初代群馬県令となった楫取素彦(かとりもとひこ)は、新政府のスローガンである富国強兵、殖産興業に基づき群馬県政を指導していきます。 教育者であった楫取は、日本の国力をあげるには人

楫取素彦 諸隊騒動から群馬県令就任まで

版籍奉還によって領地を朝廷に返上した長州藩では、藩主毛利元徳(もうりもとのり)が藩知事となりますが、収入源による財政難のため奇兵隊ら諸隊を解散するという苦渋の決断をします。 新

花燃ゆ 長州藩 幕末~明治の年表

幕末から明治にかけての年表です。長州藩を中心に重大な出来事を年代順に掲載しています。 年代    出来事(事項)

花燃ゆ 長州藩主要人物生没年一覧

長州藩の主要な人物と関連する人物の生没年一覧です。 人物名 生没年 杉文(すぎふみ) 184

錦旗(きんき)・錦の御旗(にしきのみはた)

*岩倉具視(いわくらともみ) 第二次長州征伐において幕府は10万を超える大軍を擁しながら長州一藩に勝つことができず、その求心力は急激に低下をしていきます。 もはや幕府に日本の

四境戦争と大村益次郎(おおむらますじろう)

*四境戦争(第二次長州征伐) 大島口、芸州口、石州口、小倉口 功山寺挙兵、太田・絵堂の戦いで俗論派を打ち破った高杉晋作たち正義派は藩内の権力を掌握します。 禁門の変以降但馬国

高杉晋作と功山寺(こうざんじ)挙兵 長州男児の肝っ玉

池田屋事件で吉田稔麿(よしだとしまろ)が憤死、禁門の変で久坂玄瑞(くさかげんずい)と入江九一(いりえくいち)が自刃して、松下村塾四天王の中で生存しているのは高杉晋作(たかすぎし

椋梨藤太(俗論派)による正義派の粛清 三家老切腹・四参謀斬首

禁門の変の敗戦、四カ国連合艦隊の報復攻撃により長州藩は大きなダメージを負います。 藩内では攘夷派の勢力が衰え、幕府への恭順を唱える椋梨藤太(むくなしとうた)ら俗論派が再び勢いを

禁門の変 久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一自刃

*禁門の変 九門 長州藩は八月十八日の政変により京を追われます。攘夷派の公家七名も長州に下ったことにより、朝廷内では公武一和派の公家が勢力を拡大します。 この機に乗じ朝廷との

池田屋事件(いけだやじけん)の謎 吉田稔麿(よしだとしまろ)の死

*三条小橋西 旅籠池田屋(いけだや) 八月十八日の政変で長州藩は京を追われます。朝廷工作を行っていた攘夷派公家7人までもが追放されたことは政治的に大きな痛手となりました。 基

天誅(てんちゅう)

*天誅の犠牲者 猿の文吉(ましらのぶんきち) 天誅(てんちゅう)とは天に変わって罰を与えるという意味ですが、幕末には天誅の名を借りた暗殺が横行しました。 1860年大老井伊直

奇兵隊の結成、大和行幸と八月十八日の政変(七卿落ち)

*七卿落図((山口県立山口博物館 蔵)) 航海遠略策の破棄により藩論を破約攘夷へと転換した長州藩ですが、一時的とはいえ開国論を主張したことで他藩に遅れをとってしまったと感じた

長井雅樂(ながいうた)航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)と破約攘夷(はやくじょうい)

*長州藩直目付 長井雅樂(ながいうた) 幕府大老 井伊直弼は朝廷の政治介入を嫌い、朝廷の許しを得ないまま1858年日米修好通商条約を締結しました。 朝廷を無視するかのような大

桜田門外の変 襲撃者たちのその後

1860年3月24日幕府大老井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城桜田門外で尊皇派の浪士たちに襲撃され命を落とします。 この桜田門外の変は、時代が動く転機となった大事件であり、ドラ

小田村久米次郎 おだむらくめじろう(楫取道明 かとりみちあき)と芝山厳事件(しざんがんじけん)

小田村久米次郎(おだむらくめじろう)は長州藩士である父小田村伊之助と母寿の次男として1858年に誕生しました。同じ母の兄に篤太郎(とくたろう)がいます。 久米次郎の幼少期につい

辰治(たつじ)と久坂玄瑞の子 秀次郎(ひでじろう)

吉田松陰の死後、松下村塾門下生たちのまとめ役となった久坂玄瑞は、萩を離れ江戸や京で活動をしていました。 久坂は京の桔梗屋で芸妓(げいき)をしていた辰治(たつじ)と顔見知りになり

吉田松陰の墓

1859年10月27日、吉田松陰は伝馬町の刑場でその生涯を終えます。享年30。 松陰の処刑を知った門下生の飯田正伯(いいだしょうはく)と尾寺新之丞(おでらしんのじょう)は遺体を

留魂録(りゅうこんろく)沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)と野村靖(のむらやすし)

吉田松陰は処刑の前々日から留魂録(りゅうこんろく)の執筆に取り掛かり前日の夕方に完成させます。留魂録は松下村塾門下生に宛てた松陰の遺言です。 何としてでも自分のメッセージを弟子

吉田松陰の遺書(遺言)・留魂録(りゅうこんろく)身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂

吉田松陰は1859年10月27日に斬首となります。10月16日に行われた四回目の取り調べにおいて、幕府の強い殺意を感じ取った松陰は、供述書に署名をし生きる事を諦めます。 翌17

吉田松陰処刑!松陰の最期を目撃した小幡高政、山田浅右衛門(首斬りあさえもん)の証言

1859年10月25日「留魂録」の執筆に取り掛かった吉田松陰は、26日の黄昏(夕暮時)にこれを完成させます。 松陰は27日の朝に評定所に呼び出され死罪を申し渡されます。断罪書に

吉田松陰の取り調べと自供

1859年5月25日萩を出立した吉田松陰は1ヶ月後の6月25日江戸に到着します。長州藩上屋敷に入った松陰は、呼び出しがあるまでの期間、藩邸内の留置場に入っていたようです。 第一

吉田松陰・家族との別れ 涙松「帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな」

1859年5月14日吉田松陰の江戸送りが萩に伝えられます。松陰が萩を出立した日は5月25日ですが、その間多くの友人や塾生が野山獄を訪れ松陰との別れを惜しみます。 小田村伊之助や

松浦松洞(まつうらしょうどう)が描いた吉田松陰の肖像画

*松浦松洞 吉田松陰肖像画(絹本着色吉田松陰自賛肖像) 井伊直弼の家臣で攘夷派志士たちの情報収集をまかされていた長野主膳(ながのしゅぜん)は、探索の過程で吉田松陰に関する情報

吉田松陰の手紙 死生観と草莽崛起(そうもうくっき)

伏見要駕策(ふしみようがさく)を実行しようとした入江杉蔵(入江九一)と野村和作(野村靖)兄弟は捕えられ岩倉獄に投獄されます。野山獄に入っていた吉田松陰は伏見要駕策の失敗に落胆し

伏見要駕策(ふしみようがさく)入江杉蔵(入江九一)と野村和作(野村靖)

*伏見要駕策を実行しようとした野村和作(野村靖) 1858年11月6日長州藩重役周布政之助(すふまさのすけ)に吉田松陰から手紙が送られてきました。その手紙を読んだ周布は驚愕し

老中間部詮勝要撃計画(まなべあきかつようげきけいかく)

1854年3月31日徳川幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結し下田と函館を開港します。さらに1858年6月19日幕府は天皇の勅許なしに日米修好通商条約を調印します。 これに

歴代の長州藩主(ちょうしゅうはんしゅ)

*歴代の長州藩主(萩藩主)系図 長州藩(萩藩)には、江戸から明治まで14人の藩主が存在しました。 藩祖    毛利輝元(もうりてるもと) 初代藩主  毛利秀就(もうりひでなり

長州藩士の給料 武士は食わねど高楊枝

*お米の価値 石高 お米150g=1合、10合=1升、10升=1斗、10斗=1石なので、お米1石=150kg。米1俵は60kgなので 米2.5俵=1石 江戸時代一人が消費する

長州藩士(ちょうしゅうはんし)・長州藩家臣団と禄高

*長州藩士・長州藩家臣団 1600年に起きた関ヶ原の戦いはわずか一日で決着がつき、徳川家康を中心とする東軍が勝利を手にしました。 西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元は中国地

長州藩の財政改革、藩政改革 毛利重就(もうりしげなり)と村田清風(むらたせうふう)

*村田清風(むらたせいふう) 江戸時代前期、長州藩は深刻な財政難に悩まされます。その原因のひとつが家臣たちに支給される家禄です。 120万石から37万石へと大幅な減収となった

幕末の長州藩(ちょうしゅうはん)と支藩(長府、清末、徳山、岩国)

*長州藩の支藩体制 江戸時代、周防国(すおうのくに)と長門国(ながとのくに)を領有していたのが長州藩(ちょうしゅうはん)です。長州藩は萩藩とも呼ばれ、藩主は代々毛利氏が世襲し

佐世八十郎(させやそろう)・前原一誠(まえばらいっせい)

*前原一誠(まえばらいっせい)・佐世八十郎(させやそろう) 佐世八十郎(させやそろう)のちの前原一誠(まえばらいっせい)は、大組士である佐世彦七(させひこしち)の嫡男として1

松下村塾四天王 入江九一(いりえくいち)・入江杉蔵(いりえすぎぞう)

入江杉蔵(いりえすぎぞう)【のちに改名して入江九一(いりえくいち)】は、長州藩の足軽であった父入江嘉伝次(いりえかでんじ)の嫡男として、1837年萩の土原(ひじわら)で誕生しま

松下村塾四天王 吉田稔麿(よしだとしまろ)・吉田栄太郎(よしだえいたろう)

吉田稔麿(よしだとしまろ)は、長州藩の足軽であった父吉田清内(よしだせいない)の嫡男として1841年に誕生しました。吉田松陰よりも11歳年下、高杉晋作より2歳下、久坂玄瑞より1

二十一回猛子(にじゅういっかいもうし)

吉田松陰(よしだしょういん)は、弟子の金子重之輔(かねこしげのすけ)とともにアメリカへの密航を企てますが、失敗して投獄されます。 野山獄に収監された松陰は、このころから「二十

高杉晋作(たかすぎしんさく)と吉田松陰

*高杉晋作(たかすぎしんさく) 高杉晋作(たかすぎしんさく)は、長州藩士である父高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)と母みちの嫡男として1839年に誕生しました。 吉田松陰より9

久坂玄瑞から文への手紙「涙袖帖 るいしゅうちょう」

杉文(すぎふみ)は、兄 吉田松陰の門下生であった久坂玄瑞と1857年12月に結婚します。文15歳、玄瑞18歳。 翌年になると玄瑞に江戸遊学の許可がおりたため、2月には江戸に向け

吉田松陰と久坂玄瑞(くさかげんずい)

*久坂玄瑞(くさかげんずい) のちに松下村塾の四天王と呼ばれ、松陰の妹文と結婚することになる久坂玄瑞(くさかげんずい)とはどのような人物だったのでしょうか。 久坂玄瑞は、長州

吉田松陰と松下村塾(しょうかそんじゅく)

*松下村塾 密航の罪で1年2か月野山獄に投獄された吉田松陰は、1855年12月に出獄の許可がおります。名目は病気療養ですが、松陰の才能を惜しむ家族や支援者の嘆願を藩が認めたの

吉田松陰と野山獄 読書三昧と講義の日々

密航の罪で野山獄に投獄された吉田松陰は、獄中においてどのような生活をしていたのでしょう。記録によると、投獄された当初から読書三昧の日々をおくっていたようです。 兄の梅太郎に本の

吉田松陰と高須久子(たかすひさこ)

吉田松陰が投獄された野山獄には、当時11人の囚人がいましたが、その中にたったひとりだけ女囚がいたのです。彼女の名は高須久子(たかすひさこ)といいます。 高須久子は、長州藩士高須

吉田松陰と野山獄 金子重之輔の死

アメリカへの密航に失敗した吉田松陰と金子重之輔はボードで下田に送り返されます。黒船に乗り込む際に使った小舟が流されてしまい、見つからないことに二人は焦ります。 小舟には、身元が

野山獄(のやまごく)と岩倉獄(いわくらごく)

*野山獄と岩倉獄 アメリカへの密航に失敗した吉田松陰と金子重之輔は長州藩に送られ、罪人が収容される野山獄(のやまごく)と岩倉獄(いわくらごく)に投獄されます。 野山獄と岩倉獄

吉田松陰と金子重之輔(かねこしげのすけ)の密航

*マシューペリー(Matthew Perry) 1853年6月3日アメリカの艦船が浦賀沖に現れるという大事件が起こります。江戸に遊学中であった吉田松陰は、黒船の姿をその眼で見

吉田松陰と佐久間象山(さくましょうざん)

*佐久間象山(さくましょうざん) 山田宇右衛門(やまだうえもん)と山田亦助(やまだまたすけ)から指導を受けたことで、海防と西洋兵学に関心を持つようになった吉田松陰は、人生初と

吉田松陰の師 山田宇右衛門(やまだうえもん)と山田亦助(やまだまたすけ)

幼少期から青年期にかけて吉田松陰の学問や人格形成に影響を与えた人物は、父百合之助と叔父の文之進ですが、この二人以外にも優れた人たちが松陰を指導しました。 山田宇右衛門(やまだう

小田村伊之助(おだむらいのすけ)・楫取素彦(かとりもとひこ)

*楫取素彦(小田村伊之助) 小田村伊之助(おだむらいのすけ)は1829年長州藩医である松島瑞蟠(まつしまずいばん)の次男として誕生しました。小田村伊之助(楫取素彦)の兄弟は、

玉木文之進(たまきぶんのしん)

玉木文之進(たまきぶんのしん)は、長州藩士杉七兵衛(すぎしちべえ)の三男として長門国萩川島で誕生します。兄に百合之助(ゆりのすけ)と大助(だいすけ)、甥に吉田松陰、姪に文がいま

文の弟 杉敏三郎(すぎとしさぶろう)

*杉敏三郎(すぎとしさぶろう) 杉敏三郎(すぎとしさぶろう)は、1845年に長門国萩松本村で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 滝(たき)の七番目

文の姉 杉寿(すぎひさ)・楫取希子(かとりひさこ)

杉寿(すぎひさ)は、1839年に長門国萩松本村で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 滝(たき)の四番目の子供で、兄に梅太郎と寅次郎(吉田松陰)、弟に

文の姉 杉千代(すぎちよ)・児玉芳子(こだまよしこ)

*杉千代 すぎちよ(児玉芳子 こだまよしこ) 杉千代(すぎちよ)は、1832年に長門国萩松本村で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 滝(たき)の三

文(ふみ)の兄 杉梅太郎(すぎうめたろう)

*杉梅太郎(すぎうめたろう) のちに杉民治(すぎみんじ) 杉梅太郎(すぎうめたろう)は、1828年に長門国萩松本村で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)

文(ふみ)の母 杉滝(すぎたき)

*晩年の杉滝(すぎたき) 杉滝(すぎたきは、1807年 村田右中(むらたうちゅう)の三女として誕生しました。村田家は長州藩毛利家の一門である阿川毛利家の家臣でした。 阿川毛利

文(ふみ)の父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)

杉百合之助(すぎゆりのすけ)は、1804年長州藩士である杉七兵衛(すぎしちべえ)の嫡男として長門国萩 川島で誕生しました。母については記録が残っていません。弟に大助と文之進がい

吉田松陰(よしだしょういん)の幼少期

*吉田松陰(よしだしょういん)、寅次郎、大次郎 吉田松陰(よしだしょういん)は、1830年に長門国萩で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 滝(たき

杉文(すぎふみ)誕生

*杉文(すぎふみ)、楫取美和子(かとりみわこ) 杉文(すぎふみ)は、1843年(1845年説もあり)長州藩士(萩藩士)であった父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 杉滝(すぎ

土佐藩15代藩主 山内容堂(豊信)

土佐藩15代藩主 山内容堂(豊信)は、幕末の名君のひとりに数えられる人物です。 当時の山内家は、13代藩主 山内豊熈 14代藩主 山内豊惇が相次いでなくなるという不運にみまわ