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長州藩士(ちょうしゅうはんし)・長州藩家臣団と禄高

長州藩士・長州家臣団
*長州藩士・長州藩家臣団

1600年に起きた関ヶ原の戦いはわずか一日で決着がつき、徳川家康を中心とする東軍が勝利を手にしました。


西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元は中国地方8カ国120万石の大大名から37万石の一大名に転落します。


周防、長門2カ国の大名として江戸時代を迎えた毛利氏は、輝元の子秀就(ひでなり)が長州藩(萩藩)を立藩して初代藩主となります。


長州藩には4つの支藩(長府藩、徳山藩、清末藩、岩倉藩(岩倉領))があり、毛利本家を萩藩、萩藩と4つの支藩の総称を長州藩と呼びます。


従って長州藩士(ちょうしゅうはんし)といえば、本来は萩藩と4つの支藩の藩士のことを意味するのですが、一般的には「長州藩士=毛利本家の家臣」と認識されています。


長州藩の家臣団は身分に応じて階級が与えられていました。その階級は詳細に分類すると70にもおよびます。ここでは主だった階級のみをあげておきます。

■藩主
■一門6家(宍戸家1万1300石、右田毛利家1万6000石、吉敷毛利家1万800石、大野毛利家8600石、厚狭毛利家8300石、阿川毛利家7300石)
■永代家老(えいたいかろう)2家(益田家1万2000石、福原家1万1000石)
一門6家と永代家老2家をあわせて一門八家(いちもんはっけ)とも呼ばれます。
■寄組(よりぐみ)62家(堅田家6000石、国司家5600石、佐世家3900石、児玉家3000石、志道家3000石、赤川家1200石、口羽家1000石など)
■大組(おおぐみ)1300家(高杉家200石、桂家150石、井上家100石、吉田家57石、小田村家47石、玉木家40石など)
■船手組(ふなてぐみ)29家(村上家など)
■遠近付(えんきんづき)216家(椋梨家49石など)
■寺社組(じしゃぐみ)86家(久坂家など)
■無給通(むきゅうどおり)512家(杉家、寺島家など)
■徒歩(かち)130家
■三十人通(さんじゅうにんどおり)55家
■士雇(さむらいやとい)118家
■細工人(さいくにん)
■足軽(あしがる)
■中間(ちゅうげん)
■以下省略


一門6家(宍戸家は毛利元就の娘五龍の方の夫である宍戸隆家の系統、右田毛利家は元就の七男毛利元政の系統、吉敷毛利家は元就の九男毛利秀包の系統、大野毛利家は吉川広家の次男就頼の系統、厚狭毛利家は元就の八男末次元康の系統、阿川毛利家は吉川元春の次男元氏の系統)


永代家老や寄組の名前を見ると毛利元就や毛利輝元の重臣とした活躍した人たちの子孫の家が多く存在します。


永代家老の益田家の先祖は益田元祥(ますだもとなが)、福原家の先祖は福原貞俊(ふくばらさだとし)


寄組の筆頭堅田家の先祖は堅田元慶(かただもとよし)堅田元慶は毛利輝元の側近です。国司家の先祖は国司元相(くにしもとすけ)、児玉家は児玉就忠(こだまなりただ)、志道家は志道広良(しじひろよし)、赤川家は赤川元保(あかがわもとやす)、口羽家は口羽通良(くちばみちよし)口羽通良は志道広良の弟もしくは子です。


永代家老は代々世襲で家老になることができる家柄で、寄組は能力があれば一代限りですが家老になることができました。


一門、永代家老、寄組は家臣(陪臣)を持ち独自の軍隊を組織することができます。大組は長州藩の中級クラスの集団で最も構成人数が多く、大組と遠近付までが馬に乗ることが許されました。


大組と遠近付は藩主の直轄の部隊で別名馬廻りとも呼ばれます。徳川幕府でいえば旗本にあたります。


無給通と三十人通も藩主直轄の部隊ですが、馬に乗ることは許されていない歩兵です。


三十人通(さんじゅうにんどおり)までが武士の身分で世襲が許された家です。士雇(さむらいやとい)は武士と同等に扱われますが、一代限りで世襲は許されていませんでした。


幕末時長州藩には2500人を超える武士がいたそうです。足軽はおよそ3000人で、武士以下の身分は(陪臣も含めると)3万人~4万人もいたそうです。

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