ジャンクワードドットコム・歴史と暮らしのポータルサイト

禁門の変(蛤御門の変)久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一自刃

八月十八日の政変から禁門の変への道筋

長州藩の失脚と急進派の台頭

長州藩は、八月十八日の政変によって京都を追われます。さらに、攘夷派の公家七名が長州に下ったことで、朝廷内では公武合体派の公家たちが勢力を拡大していきました。この状況を受け、幕府は朝廷との関係を強化するべく活動を活発化させていたのです。

一方、危機感を募らせた長州藩では、京都に潜伏していた藩士や、諸藩の攘夷派志士と連携を取り、巻き返しを図ります。

長州藩内でも、特に急進的な攘夷派であった来島又兵衛(きじま またべえ)や、政変後に長州へ逃れた真木和泉(まき いずみ)らは、「兵を挙げて再び京都に進軍し、勢力を回復すべきだ」と強く主張していました。

来島は遊撃隊を組織し、今にも京都へ進軍しようとする勢いをみせ、この動きを危惧した藩上層部は、政務座役に抜擢された高杉晋作(たかすぎ しんさく)を、説得役として来島のもとに派遣します。

高杉は数日間にわたり説得を試みますが、来島から「臆したのか!」と罵られ、急進派の間でも「重役になって自分の身が可愛くなったのだろう」と批判の声が上がりました。

高杉は「京に潜伏している桂小五郎や久坂玄瑞らの意見も聞くべきだ」と提案し、来島もこれを受け入れます。こうして高杉は京都へ向かいますが、藩に正式な許可を得ずに出発したため、藩内では「来島の説得に失敗して逃亡した」とみなされてしまうのです。

京都に到着した高杉は、藩から帰国命令が出ていることを知り、萩へ戻ります。しかし、その行動が問題視され、脱藩の罪に問われて野山獄に投獄されてしまいました。

このとき高杉は、師・吉田松陰を思い浮かべながら、「先生を慕ふてようやく野山獄」という歌を詠んだと伝えられています。

禁門の変 京都御所 作成:junk-word.com
禁門の変 九門

池田屋事件が生んだ長州藩の決起

新選組の襲撃と藩論の転換

周布政之助(すふまさのすけ)や桂小五郎(かつらこごろう)といった慎重派は、今にも爆発しそうな急進派を必死になだめていました。彼らにとって、長州藩が朝敵の烙印を押されることは絶対に避けたい最悪のシナリオです。しかし1864年6月5日、この微妙なバランスを一瞬で吹き飛ばす事件が起こります。池田屋事件です。

新選組による容赦ない襲撃は、長州藩に大きな衝撃を与えました。仲間たちが無残に殺されたという知らせに、急進派の怒りが爆発します。「もう話し合いなんて無意味だ!武力で決着をつけよう!」という声が藩内を駆け巡り、これまで京都への出兵に慎重だった久坂玄瑞でさえ、来島や真木の熱い思いに押し切られてしまいます。

もはや急進派を抑えることは不可能と悟った長州藩上層部は、重大な決断を下します。藩主毛利敬親と世子定広、そして追放された攘夷派公家の赦免を朝廷に求めるため、武力を背景とした京都進攻の決行です。福原越後(ふくはらえちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)の三家老を中心に、来島又兵衛、真木和泉、久坂玄瑞らが総勢2千の軍を率いて京都に向かうことになります。作戦は二段階構成で、まず先発隊が京都周辺を制圧し、その後で世子定広が本隊を率いて上洛するという計画でした。

禁門の変の激戦と悲劇的な結末

久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一の最期

長州軍は本営を山崎天王山におき益田右衛門介、真木和泉、久坂玄瑞らおよそ1000の兵が陣取り、伏見の長州藩邸には福原越後300、嵯峨天龍寺には国司信濃、来島又兵衛ら600の兵が布陣しました。長州藩は朝廷に赦免嘆願を願い出ますがこれが叶うことはなく、その間に京都守護職 松平容保が九つある門をすべて閉じて御所の防備を固めてしまうのです。

蛤御門は会津藩、堺町御門は福井藩、乾門は薩摩藩、中立売門は福岡藩が守ります。幕府側の兵力はおよそ2万~3万とされ、2千の長州藩とは10倍以上の差がありました。7月18日になると禁裏守衛総督(きんりしゅえいそうとく)一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が長州藩に対し退去命令を発します。

長州軍は男山八幡で軍議を開きますが、数のうえで圧倒的に不利な状況に久坂玄瑞は世子定広の到着を待つべきだと主張しますが、来島又兵衛は「医者坊主に戦争の事がわかるものか!」と激高し久坂の意見を抑え込みます。結局、来島や真木たち強行派に押し切られる形で進軍することになります。

数で劣る長州軍は、三方向から同時に攻撃を加える戦略を立てます。19日早朝、進軍を開始した長州軍は、福原越後が伏見街道を北上ます。国司信濃隊と来島又兵衛隊は蛤御門(はまぐりごもん)と中立売門(なかたちうりもん)、益田右衛門介、真木和泉、久坂玄瑞隊は堺町御門(さかいまちごもん)を目指し進軍!同時刻に攻撃を開始する計画でしたが、各隊の足並みが揃わない状態で戦に突入してしまったのです。

伏見海道で大垣藩、彦根藩と交戦状態となった福原越後隊は、一進一退の戦いを展開しますが、次第に押され気味になり福原越後が負傷するにおよび、体制を立て直すため山崎へと退却します。国司信濃隊と来島又兵衛隊は、会津、桑名の兵と交戦状態となります。来島又兵衛隊が攻めた蛤御門が一番の激戦となりました。

激しい攻撃をしかける来島隊に会津は押され気味となり、さらに国司信濃隊が中立売門を突破して禁裏へと突入しますが、乾御門(いぬいごもん)の薩摩藩が会津の応援に駆け付けると形勢は逆転!来島又兵衛が戦死すると総崩れとなり退却を余儀なくされます。

一方、益田右衛門介、真木和泉、久坂玄瑞隊は現場への到着が遅れていました。堺町御門付近に到着したときにはすでに国司信濃隊が退却を始めていました。堺町御門を守る福井藩兵と戦になりますが、固い守りを突破することができず兵は散り散りになります。

絶体絶命の状況で、久坂玄瑞は最後の手段に打って出ます。知り合いだった鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)を頼って、一緒に御所に参内し、天皇に直接赦免をお願いしようという考えです。しかし輔煕は久坂の必死の懇願を聞き入れず、縋りつく久坂を振り切って御所の奥へ逃げてしまいます。万策尽きた久坂が邸宅の外で敵と戦おうとした時、銃弾が彼の腿に命中し、もう歩くことすらできなくなってしまいました。

「元治甲子禁門事変実歴談」「忠正公勤王事績」には久坂らの様子が記されています。

「このような有様となるに至り、君公に対し申し訳ない次第ながら、我々がいま出来ることは事の次第をご注進することであるが、私は負傷し死ぬ覚悟なので、君たち四人の中で申し合わせて、どのような手段をとっても囲みを脱して、ご出向を御留めしてほしい」

死を覚悟した久坂は顔見知りであった河北義次郎(かわきたよしじろう)たちに世子定広への伝言を託します。しかし、河北は「囲みを突破するのは困難であるから、吾々もここで討死したい」と返答しました。

河北の決心を聞いた久坂は「致し方ない」と言って諦めますが、入江九一と寺島忠三郎の姿を見つけると二人に伝言を頼むのです。二人とも「ここで死ぬ」と断りますが、久坂が再度説得すると入江が了承します。

入江は懐から櫛を取り出し乱れていた久坂の髪を整えます。入江との別れに久坂は涙を落としたそうです。残った久坂と寺島は自刃しようとしますが、鷹司家の家臣であった兼田義和(かねだよしかず)が二人を見かけ「久坂さんは傷を負っているためお逃げできませんが、寺島さんは無傷なのだから私が御落とし致します」と救いの手を差し伸べます。

これに対し寺島は「久坂と一緒に死ぬ義理合いだから」と返答しこの申し出を断ったとされています。二人は燃えさかる鷹司邸で自刃して果てます。久坂玄瑞享年25。寺島忠三郎享年22。

久坂から伝言を託された入江は鷹司邸の裏側から脱出しますが、彦根藩兵に見つかり斬り合いとなります。入江は数人を斬り伏せますが、敵の槍で眼を突かれ重傷を負ってしまうのです。抱えられ邸内に戻った入江に向かい河北が「介錯は!」と問いますが、入江は「かまうな、早く逃げろ」とでも言うかのように手を振ったため、河北はその場を去ります。入江がその後どうなったのか目撃者がいないのでわかりません。久坂や寺島が居る場所まで戻り自害したと推測されています。入江九一享年28。

男山八幡の軍議で進軍を主張した真木和泉は、敗走する兵をまとめ山崎まで退却します。150名ほどいた兵に長州に落ち延びるよう指示すると、真木は陣屋に火をかけ同士とともに果てました。