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松下村塾四天王 吉田稔麿(よしだとしまろ)・吉田栄太郎(よしだえいたろう)

吉田稔麿(よしだとしまろ)は、長州藩の足軽であった父吉田清内(よしだせいない)の嫡男として1841年に誕生しました。吉田松陰よりも11歳年下、高杉晋作より2歳下、久坂玄瑞より1歳年下になります。


稔麿の生家は、吉田松陰の生家杉家の近所にあり、9歳のときに久保五郎左衛門(くぼごろうざえもん)が主催していた松下村塾で学び始めます。


13歳になると江戸藩邸での勤務のため萩を離れます。稔麿が江戸滞在中に浦賀に黒船が来航するという大事件が起こります。稔麿はその眼で黒船を見ることになったのです。


萩に帰国した稔麿は宝蔵院流の槍術を学び、1855年になると世子毛利定広(もうりさだひろ)のお供の一員として再び江戸に上ることになります。


稔麿が吉田松陰の松下村塾に入塾したのは、江戸での勤めが終わり帰国した1856年11月ごろとされています。


16歳で松下村塾の門下生となった稔麿ですが、入塾した当時は吉田栄太郎(よしだえいたろう)を名乗っていました。稔麿という名はのちに改名したものです。


稔麿は師である松陰から「無逸(むいつ)」という字(あざな)をつけられ可愛がられたと言われています。無逸(むいつ)は、正直者でわがままな振る舞いはしないという意味なのだそうです。


松陰は「実甫(じっぽ)の才は縦横無碍(むげ)なり。暢夫(ちょうふ)は陽頑、無逸は陰頑、皆人の駕御(がぎょ)を受けず、高等の人物なり」と評しています。


実甫(久坂玄瑞)の才能には限りがない。暢夫(高杉晋作)は陽気な頑固者、無逸(吉田稔麿)は陰気な頑固者であるが、皆他人の言質に惑わされることのない優れた人物であると述べています。


頑固者だがどこか陽気な高杉晋作に対し、稔麿も同じく頑固者だが少し陰気な(おとなしい)性格であったようです。


稔麿が松陰のもとで学んだのはわずか10ヶ月程ですが、その間の猛勉強ぶりは門下生の中でも抜きに出ていたそうで、のちに松下村塾四天王(松下村塾三秀)と呼ばれるまでに成長しました。


しかし、稔麿の家はとても貧しく経済的困窮から家計を助けるために江戸藩邸での勤務を余儀なくされます。


1858年11月江戸勤務を終え萩に戻った稔麿ですが、そのころになると松陰の思想は過激さを増しており、攘夷派の志士の弾圧、取り締まりを指揮していた、幕府老中 間部詮勝(まなべあきかつ)を要撃する計画が進行していました。


稔麿もこの計画に参加をしますが、藩に知られるところとなり、松陰は野山獄に再投獄され、稔麿も自宅謹慎を命じられます。


松陰と出会いその才能を開花させた稔麿ですが、稔麿の両親は当初から松陰と関わることを快く思っていませんでした。さらに過激さを増した松陰のもとを離れるよう稔麿を説得します。


松陰と両親との間で板挟みとなった稔麿は、両親の願いを聞き入れ松陰や松下村塾門下生との関係を絶つことを決意するのです。


可愛がっていた愛弟子に裏切られたと思った松陰は「行屍(こうし)の人なり」「生きたしかばね」と稔麿を批判しました。のちに事情を知った松陰は「栄太の心中誠に憐れむべし」として稔麿の行動を許すのです。


松陰刑死後の1860年、稔麿は突如脱藩して江戸に行き、幕府の旗本 妻木田宮(つまきたみや)の用人になります。この間の経緯はよくわかっていませんが、幕府と長州藩の間の調整役として藩の命令に従ったとする説や、幕府の実情を探るために自らの意思で仕えたとする説、経済的な理由から仕えたなど諸説あります。


1862年妻木家を辞した稔麿は、毛利定広から脱藩の罪を許され帰藩します。松陰の慰霊祭への参加が許され、その後は松下村塾門下生とともに尊皇攘夷運動に邁進します。


1863年7月にはそれまでの功績が認められ士分に取り立てられ苗字帯刀が許され、栄太郎から吉田稔麿に改名するのです。


1864年には「維新団」を結成し、長州藩尊皇攘夷派リーダーのひとりとなった稔麿は萩、京、江戸と忙しく動き回ります。


しかし、1864年6月5日京都の旅籠池田屋で同士と会合中に新選組の襲撃を受けその生涯を閉じます。稔麿の最期についてはいくつかの説が存在します。


・池田屋から脱出した稔麿は長州藩邸に走り事の次第を報告すると、再び池田屋に戻ろうとしますが、途中の加賀藩邸前で新選組もしくは会津藩兵と遭遇して斬り合いになり討死します。

・池田屋から脱出した稔麿は長州藩邸に走りますが、藩邸の門を開けてもらえずに門前で自害した。

・何らかの理由で池田屋を離れているすきに新選組の襲撃があり、これを知った稔麿が池田屋に駆け付け討死


24歳という若さでその生涯を終えた稔麿の遺体は、町人の手によって三縁寺に葬られたとされています。また、密かに長州藩邸に収容されたとする説もあります。


「結びてもまた結びても黒髪の乱れ染めにし世をいかにせむ」「結んでも、結んでも、乱れてしまう黒髪のように、乱れている世の中をどうしたらよいのだろう」これは吉田稔麿辞世の句とされていますが、真偽の程はわかりません。


吉田稔麿の逸話

江戸に護送される松陰!師のもとを離れていた稔麿は公に松陰との別れをする訳にはいきません。それでも、一目見ようと民家の塀穴から師の姿を追います。松陰の姿を見た稔麿は慟哭します。それに気づいた松陰がやさしい顔で頷き稔麿を許すのです。


稔麿はあるとき烏帽子、暴れ牛、木刀、棒の絵を描きます。山県小輔(やまがたこすけ)がこの絵は何か?と稔麿に聞くと烏帽子は久坂玄瑞、暴れ牛は高杉晋作、木刀は入江九一だと説明します。


久坂玄瑞は烏帽子をかぶれば絵になる男であり、高杉晋作は誰も制御することができない暴れ牛、入江は久坂や高杉に比べれば劣るが、相手を斬ることはできなくても脅すことぐらいはできる。


残っている棒は誰かと尋ねると、それはお前のことだと言われます。三人に比べればお前は凡庸であると指摘されたのです。のちに総理大臣となる山県有朋ですが、当時の松下村塾ではこれといって目立たない存在だったのです。


池田屋事件死者(いけだやじけんししゃ)
*池田屋事件での攘夷派志士の死者

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