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長井雅樂(ながいうた)航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)と破約攘夷(はやくじょうい)

長井雅樂(ながいうた)
*長州藩直目付 長井雅樂(ながいうた)

幕府大老 井伊直弼は朝廷の政治介入を嫌い、朝廷の許しを得ないまま1858年日米修好通商条約を締結しました。


朝廷を無視するかのような大老の独断は、各地にいる攘夷派の反発をかいさらに将軍継嗣問題が絡み大きな政治問題となります。


井伊は幕府の政治に批判的な勢力の一掃を画策し大弾圧(安政の大獄)を行いますが、追い詰められた攘夷派によって暗殺されてしまうのです(桜田門外の変)


弾圧の中心人物であった井伊直弼の死によって、幕府は朝廷との融和策に方針を転換します。


14代将軍徳川家茂と孝明天皇の妹和宮の婚姻を画策し、朝廷の後ろ盾を得ることで体制の立て直しを図ろうとしたのです(公武合体)


これに対し長州藩では、あくまで攘夷の実行を主張するグループと公武合体を支持するグループが対立し主導権を争っていました。


長州藩直目付長井雅樂(ながいうた)は持論である「航海遠略策 こうかいえんりゃくさく」を藩主に建白します。


長井の航海遠略策は、「外人を斬るなどの行為は小攘夷と呼ぶべき蛮行であり、むしろ積極的に開国を行い、進んだ技術を学び日本の国力を上げて諸外国と対等に渡り合うべきである」とする大攘夷思想とも言うべきものでした。


藩主毛利敬親はこの建白を採用し藩論とすると、長井を江戸に送り幕府との交渉に当たらせます。


長井は老中安藤信正(あんどうのぶまさ)、久世広周(くぜひろちか)と会談を行い支持を得ると幕府と朝廷の間に入り公武合体と航海遠略策の実現に向け精力的な活動を行います。


この長井の航海遠略策に反発したのは、久坂玄瑞、桂小五郎ら吉田松陰に近い人たちでした。「外国の進んだ技術を学び日本の国力を上げる」という思想は、吉田松陰や佐久間象山も主張していました。


師である松陰の思想とほぼ同じ主張をした長井の航海遠略策になぜ反発したのでしょうか?


日米修好通商条約の締結により開港すると安価な外国品(繊維製品など)が輸入されるようになり、国内の流通が混乱をきたすようになります。さらに金と銀の交換レートの違いから大量の金が外国に流失したのです。


幕末時日本国内では銀の価値が高く設定されていたため、外国から銀貨を持ち込んで金貨と交換し、その金貨を持ち帰ることで大きな利益を手に入れることができたのです。金の流出と物流の混乱による物価高騰が庶民の生活を苦しめていました。


生活が苦しくなったのは異国のせいであり、日本国内を混乱させその隙に乗じて領土をかすめとるつもりなのではと危機感を募らせたのです。


このまま開国を推し進めれば日本は危ない!久坂たちは強固に攘夷を主張します。


航海遠略策に傾いた藩論を是正すべく調停工作を行っていた久坂たちのもとに坂下門外の変の一報が届きます。


老中安藤信正が攘夷派の水戸脱藩浪士たちに襲われ負傷し失脚したのです。


大老の暗殺に続き、老中までもが襲われるという失態に幕府の権威は失墜!公武合体の中心人物であった安藤の失脚に攘夷派が勢いづきます。


この機を逃すまいと長州藩攘夷派は長井を追い詰めるべく攘夷派の公家を動かし朝廷に働きかけるのです。


その甲斐あって一度は航海遠略策を受け入れた朝廷も、攘夷派の勢いに方針を転換し公武合体派の公家を罷免したのです。


さらに長井が建白した航海遠略策には朝廷を誹謗する箇所があるとして長州藩に対して不快感を示したのです。


長州藩は朝廷に謝罪するとともに、航海遠略策を破棄し長井を失脚させました(長井は翌年に切腹)


こうして長州藩の藩論は「破約攘夷 はやくじょうい(大老井伊直弼が独断で締結した日米修好通商条約を破棄して攘夷を決行する)」 へと転換され、桂小五郎、久坂玄瑞たち攘夷派が主導権を握るようになるのです。

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