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椋梨藤太(俗論派)による正義派の粛清 三家老切腹・四参謀斬首

禁門の変の敗戦、四カ国連合艦隊の報復攻撃により長州藩は大きなダメージを負います。

藩内では攘夷派の勢力が衰え、幕府への恭順を唱える椋梨藤太(むくなしとうた)ら俗論派が再び勢いを盛り返します。

幕府は尾張藩 徳川慶勝(とくがわよしかつ)を総督、薩摩藩の西郷吉之助を参謀とする征長軍を編成し萩に向けて進軍を開始!西国の諸藩を中心に10万を超える軍勢が動員されました。

藩内で実権を握った俗論派は、正義派の中心人物であった周布政之助(すふまさのすけ)を自刃に追い込むと、徹底抗戦を叫ぶ諸隊を抑え込みます。

長州藩の支藩である岩国藩(岩国領)の当主 吉川経幹(きっかわつねまさ)は危機に瀕した長州藩を救うため奔走します。

経幹は禁門の変を謝罪し、首謀者を処罰して事態の収拾を図ることを毛利敬親に進言するのです。敬親はこれを受け入れ経幹に仲介を依頼します。

経幹は椋梨藤太ら恭順派(俗論派)に禁門の変で兵を率いた三家老 福原越後(ふくはらえちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)の切腹と四参謀の斬首を求めました。

恭順派(俗論派)は三家老を切腹させ、野山獄に投獄していた禁門の変の四参謀 宍戸左馬之助(ししどさまのすけ)、佐久間佐兵衛(さくまさへえ)、中村九郎(なかむらくろう)、竹内正兵衛(たけのうちしょうべえ)を斬首にします。

長州藩の謝罪を受け入れた徳川慶勝と西郷吉之助は征長軍に解散を命じ第一次長州征伐は終了しました。

三家老の切腹のみならず四参謀まで処刑した俗論派の暴挙に野村望東尼(のむらぼうとうに)の山荘に逃れていた高杉晋作が動き出します。高杉は下関に戻ると俗論派との戦いを決意し功山寺で挙兵!

高杉挙兵の知らせを受けた俗論派は、野山獄に投獄していた前田孫右衛門(まえだまごえもん)、山田亦介(やまだまたすけ)、松島剛蔵(まつしまごうぞう)、毛利登人(もうりのぼる)、大和弥八郎(やまとやはちろう)、渡辺内蔵太(わたなべくらた)、楢崎弥八郎(ならざきやはちろう)ら正義派の首脳たちを斬首にします。

松島剛蔵は小田村伊之助(おだむらいのすけ)の兄、山田亦介は吉田松陰が教えを受けた師のひとりであり、山田顕義(やまだあきよし)の伯父でもあります。

さらに、正義派の家老 清水親知(しみずちかとも)にも切腹を命じ報復をするのです。清水親知の先祖は高松城水攻めで切腹した清水宗治です。

俗論派の蛮行ともいえる粛清に、高杉の挙兵に懐疑的であった諸隊が雪崩を打って高杉側についたことで形勢が逆転!太田・絵堂の戦いで俗論派を打ち破り一掃することに成功しました。

野山獄で粛清された11人宍戸左馬之助、佐久間佐兵衛、中村九郎、竹内正兵衛、前田孫右衛門、山田亦介、松島剛蔵、毛利登人、大和弥八郎、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎はのちに甲子殉難十一烈士(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)と呼ばれました。

1896年山口県萩市の東光寺(とうこうじ)に慰霊のための墓(元治甲子殉難烈士墓所)が建てられ、福原越後、国司信濃、益田右衛門介、周布政之助、 清水親知(清水清太郎)と十一烈士が祀られたのです。

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