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吉田松陰の手紙 死生観と草莽崛起(そうもうくっき)

伏見要駕策(ふしみようがさく)を実行しようとした入江杉蔵(入江九一)と野村和作(野村靖)兄弟は捕えられ岩倉獄に投獄されます。野山獄に入っていた吉田松陰は伏見要駕策の失敗に落胆し孤立感を深めていきます。


この時期の松陰は人生のドン底ともいえる状況にありました。久坂玄瑞や高杉晋作たち愛弟子とは絶交状態にあり、松陰の志や行動を支援してくれた藩の重臣、友人たちも松陰と距離を置きはじめ、孤独感にさいなまれていったのです。


この野山獄で松陰はあらためて「死」とは何かを考えるようになります。岩倉獄の野村和作との間で「死」について手紙のやりとりを行っています。


伏見要駕策に失敗して捕縛された野村和作は、「なぜ武士らしく死ぬことができなかったのか」と自分を責めていました。


和作は「あのときは死ぬことができなかったが、今では覚悟が十分にできています」という内容の手紙を松陰に送ります。


それに対し松陰は、「あなたは死ぬ覚悟ができたそうですね。私はとても感心しています。金子重之輔を失って以来、同士を求めつづけましたが、巡りあえませんでした。しかし、ようやくあなたという同士を得ることができました。金子重之輔は死んでいなかったということです。うれしく思います。」


「しかし、【憤慨して死ぬことは容易いが、ゆったりと落ち着いた心境で死ぬのは難しいものである】という言葉があるように、戦場で討死することはそう難しくありませんが、今回のように事が成就ぜず、すべてが終わった後で死ぬことは難しいものです。この度のことはお互いの研究課題としましょう。」と答えています。


さらに松陰は死(死生観)に関する手紙をたくさん書いているのでいくつか抜粋して紹介します。


「命はひとつしかないものだから、死ぬということはとても難しいことなのです。だからこそ、死ななければならない理由を自分自身が納得していなければ、良い死に方はできないのです。しかし、納得できたとすれば、それは良い死に方であり、世の中のお役にたてる死であるのです。」


「自らの志に反し正義を貫くことをせずに生き延びたとしたら、死ぬよりも苦しい目にあうことになるのでしょう。」


「長州藩は尊皇攘夷を掲げていながら何も行動していません。できもしないことを言うと信用を失うことになります。私が志を貫き天皇さまのために死ねば、長州藩の信用も少しは回復するでしょう。私の友人なら私が死んでお役に立てるようとりなしてください。それさえしてくれないのであれば友人と呼ぶことはできません。」


「私が志を貫き死のうとしているのに友人たちがもし止めようとするなら、そんな友人たちに私は【あなたが死ねないからといって、私が死ぬのを止めるのはあまりにも情のない行いです】と言うつもりです。」


「私が死をのぞんでいるのは、このまま生きながらえても志を実現できる見込みがないからです。今、日本は危機に直面しています。私が死ぬことで日本のために決死の行動を起こしてくれる人があらわれるかもしれません。それが私の死ななければならない理由なのです。」


松陰は外国の脅威に対し明確なビジョンを示さない幕府に、もはや日本を統治する能力はないと考え倒幕の意思を鮮明にしますが、このころには幕府だけでなく、何の行動も起こさない日和見の藩に対しても見限るような発言をしています。


「これまで日本を統治してきた幕府や藩などはもはやあてにはならず、庶民の中から志のある者が立ち上がり行動を起こす以外にこの国を救う手段はありません。」と北山安世に宛てた手紙の中で述べています。


これが有名な草莽崛起(そうもうくっき)です。松陰は、庶民の中から優秀な人材を発掘するという考えをこれまで何回か主張してきましたが、これほど明確に宣言したことはありませんでした。


太平の世に慣れてしまい危機感を喪失した幕府や藩だけではもはや外国の脅威から日本を守ることはできないと確信したのでしょう。


松陰の草莽崛起論が幕藩体制の崩壊まで視野に入れていたと考えるのはいささか早計にすぎると思いますが、身分の低い者はどんなに志があっても、藩政や幕政に参加することができないという窮屈な社会に閉塞感を感じていたことは確かでしょう。


この草莽崛起の思想は高杉晋作の奇兵隊へと受け継がれ、その後に起こる幕藩体制の崩壊、身分制度の改革(四民平等)へとつながっていくのです。

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