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奇兵隊の結成、大和行幸と八月十八日の政変(七卿落ち)

七卿落図
*七卿落図((山口県立山口博物館 蔵))

航海遠略策の破棄により藩論を破約攘夷へと転換した長州藩ですが、一時的とはいえ開国論を主張したことで他藩に遅れをとってしまったと感じた長州藩攘夷派は、より過激な行動にでます。


久坂玄瑞、高杉晋作、松島剛蔵、志道聞多、赤根武人らは御楯組(みたてぐみ)を結成し、イギリス公使館を焼き討ちするという行為にでたのです。


朝廷内でも攘夷派公家の発言力が高まり、世の中の流れが攘夷へ傾くと孝明天皇は幕府に攘夷を迫ります。14代将軍徳川家茂は孝明天皇の求めに応じ上洛を果たします。


幕府は家茂が上洛するまでの間に朝廷工作を行い攘夷の決行を阻止しようと奔走しますが、すでに朝廷内は攘夷派の公家で固められていて成果を上げることができなかったのです。


参内した家茂は、孝明天皇に攘夷の決行を迫られ、期日を5月10日と決定してしまうのです。この知らせを聞いた久坂玄瑞は大いに喜び攘夷を決行すべく萩に帰国します。


久坂は吉田稔麿、入江九一ら仲間とともに下関の光明寺(こうみょうじ)に入り5月10日の攘夷に向けて準備を進めます(光明寺党の結成)


藩から派遣された兵およそ1000人と久坂たち光明寺党は、5月10日の期日がくると馬関海峡(下関海峡)を通過するアメリカ商船ペンブローク号に砲撃を行い攘夷を実行したのです。驚いたペンブローク号は上海に逃走します。


その後もフランス艦船キャンシャン号、オランダ艦船メデューサ号に砲撃を加え馬関海峡から追い出します。


外国船を打ち払い歓喜にわく長州藩でしたが、6月に入るとアメリカ、フランスの軍艦が報復のため馬関海峡に姿を現し下関を砲撃したのです。


長州藩の艦船壬戊丸と庚申丸は撃沈!癸亥丸は大破し、下関に設置した砲台もほぼ壊滅状態となります。


わずか3隻の軍艦(アメリカのワイオミング号、フランスのセミラミス号とタンクレード号)によって長州藩の海上防衛網は簡単に突破され、上陸まで許してしまったのです。


圧倒的な軍事力の差に衝撃を受けた長州藩は攘夷が時期尚早であったことを痛感します。
長州藩主毛利敬親は、高杉晋作を登用して軍備の増強にあたらせます。


高杉は「武士だけではもはや国を守ることはできない!庶民からも広く兵を募り、長州が一丸とならなければ異国に勝つことはできない」と主張し奇兵隊を結成するのです。


高杉が奇兵隊を結成したころ、馬関海峡の戦で敗れ退却した久坂玄瑞は京にいました。攘夷をさらに推し進めるべく桂小五郎らと協力して調停工作をおこなっていたのです。


久坂は、久留米藩の攘夷派 真木和泉(まいきずみ)が提案した大和行幸策(やまとぎょうこうさく)を実現させようと躍起になっていました。


大和行幸策とは、孝明天皇が大和に赴き初代天皇である神武天皇領を参拝して攘夷を祈願するというものです。


天皇が自らの意思を示すことで、攘夷の期日がきたにもかかわらず実行しようとしない幕府に圧力をかけようとしたのです。


また、真木和泉の大和行幸策には、天皇親政=倒幕の挙兵の意味も込められていたといわれています。


大和行幸を機に、天皇の権威をさらに高め、幕府にかわり天皇みずからが政治を行う親政へのきっかけにしようする計画であったようです。


真木と久坂は攘夷派の公家に働きかけ8月13日に「行幸の詔」を得ることに成功します。


しかし、真木や久坂など一部の急進派のやり方に不満を持っていた薩摩藩は会津藩と手を組み大和行幸を阻止する行動に出たのです。


薩摩藩と会津藩は公武合体派の公家中川宮の協力を得て長州藩と攘夷派の公家を京から追放する密議を重ねます。


8月18日早朝、中川宮ら公武合体派の公家が参内し、御所に通じる9つの門を閉鎖します。武装した薩摩、会津、淀の藩兵が門前で警備にあたりました。


異変に気付いた久坂たちは、長州藩が警備を担当する堺町御門に駆け付けますが、そこには武装した会津、薩摩の兵が陣取っていたのです。


長州藩邸からも武装した兵が駆け付け、会津、薩摩と一触即発の状態となりますが、やがて朝廷から長州藩の堺町御門警備を免ずるという勅命が届けられます。


同時に、大和行幸の中止と攘夷派公家の参内禁止、毛利家入京の禁止、鳥取藩、徳島藩、米沢藩、岡山藩に門の警備を固めるようにとの命が伝えられたのです(八月十八日の政変)


久坂、桂、真木たちはひとまず妙法院まで退却をして善後策を話し合います。会津や薩摩と一戦交えるという意見も出ますが、朝廷を抑えられてはいかんともしがたく、ここはいったん長州に戻り体制を建て直すこととなりました。


翌19日、門が閉ざされ御所に入ることができない攘夷派の公家7人(三条実美、三条西季知、東久世通禧、澤宣嘉、錦小路頼徳、四条隆謌、壬生基修)とともに雨が降る中を長州に落ちていったのです(七卿落ち)

久坂はこのときの気持ちを歌(即興の今様)にして残しています。

「七卿都落舞歌」

世は苅菰と乱れつつ 茜さす日もいと暗く

蝉の小河に霧立ちて、隔ての雲となりにけり

あら痛ましや霊たまきはる、内裏に朝夕殿居せし

実美朝臣 季知卿 壬生 澤 四條 東久世 其の外錦小路との

今うき草のさだめなき、たびにしあれば駒さへも、

すすみかねては嘶ひつつ ふりしく雨の絶え間なく

涙に袖の濡れ果てて 是より海山あさぢが原、

露霜わきて葦の散る 難波の浦にたく塩の 

からき浮世は物かはと 行かんとすれば東山

峰の秋風身にしみて、朝な夕なに聞きなれし

妙法院の鐘の音も、なんと今宵は哀れなる

いつしか暗き雲霧を、払いつくして百敷の

都の月をめで給ふらん


妙法院の壁にもたれかかり歌う久坂!

何とも絵になるシーンですが、実話なのか真偽のほどはわかりません。


この八月十八日の政変と呼ばれるクーデターが成功した要因は孝明天皇の意思にあります。


孝明天皇は攘夷論者ではありますが、自ら親政を行うことは考えておらず、幕府に攘夷を実行させてこの難局を乗り切ろうと考えていたのです。


天皇の意思をないがしろにして暴走する長州の急進派と攘夷派公家に不快感を抱いていました。


また、天誅と称して横行する攘夷派による暗殺事件にも嫌悪感を抱いていた孝明天皇は、急進派を京から一掃して公武一和の流れを加速させようとしたのです。

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