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吉田松陰の取り調べと自供

1859年5月25日萩を出立した吉田松陰は1ヶ月後の6月25日江戸に到着します。長州藩上屋敷に入った松陰は、呼び出しがあるまでの期間、藩邸内の留置場に入っていたようです。


第一回目の取り調べは7月9日に行われました。このときの様子は留魂録と高杉晋作宛ての手紙に記されているため、どんな取り調べが行われたのかを知ることができます。


松陰の取り調べにあたったのは寺社奉行 松平伯耆守、勘定奉行 池田播磨守、町奉行 石谷因幡守の三奉行で、三奉行が問いただしたかったことは梅田雲浜との関わりと、御所内の落とし文に関する2点でした。


雲浜を捕縛して拷問にかけたときに雲浜の口から「萩を訪れた際に松陰と面会した」との供述を得たため、ふたりの間に何らかの密議があったのではないかと疑ったのです。


また、御所内に幕府を批判する内容の落とし文があり、その筆跡が松陰の筆跡と似ていると雲浜が証言したため、落とし文を書いたのは松陰ではないかとの疑念を持ったのです。


これらの嫌疑に対し松陰は「雲浜とは禅や学問について語り合っただけ」と述べ、さらに「私は公明正大を好む性格であるから、自分の名前を隠して落文を書いたりはしない」と答えます。


さらに三奉行は雲浜との関係を執拗に問いただしますが、「雲浜は尊大な性格で、私はそんな雲浜が嫌いであり志を語り合うような仲ではない」と松陰は反論したのです。


この段階では松陰と雲浜の関連を示すような供述はなく、また落文に関しても松陰が書いたものだと断言できるだけの証拠はありませんでした。このまま終われば証拠不十分で松陰は大した罰を受けることはなかったのです。


松陰は下田踏海事件から現在までに至る経緯を説明し、日本の将来について自らの持論を三奉行相手に語ります。


その過程で「私は死罪にあたる罪を二つ行いました」と発言し、伏見要駕策(ふしみようがさく)と間部詮勝要撃計画を供述するのです。


三奉行は間部詮勝要撃計画に驚愕します。


もちろん松陰は「間部老中を要撃する」とは言っておらず「間部老中をお諫めしようとした」と言ったのです。この供述の後、取り調べは一時中断となります。


ここで疑問なのは、なぜ松陰は自分で罪を告白したのかという点です。松陰は「伏見要駕策」と「間部詮勝要撃計画」については、すでに幕府は探索済みであり、何らかの情報を得ていると思い込んでいたふしがあります。


「どうせ、知られているのだからこの際自分の主張を幕府の重臣相手に展開しよう」としたのです。しかし、これは松陰の思い違いでした。


幕府が疑念を持っていたのは雲浜と松陰の関係であり、二人の間に何らかの密議があったのではないかとう疑いだったのです。


「伏見要駕策」と「間部詮勝要撃計画」については何の情報も得ていませんでした。


取り調べが再開されると、三奉行の態度は厳しいものとなっていました。この三奉行の様子を見た松陰は自分が勘違いしていたことを認識します。


焦った松陰は、あくまで間部老中を「要諌 ようかん」しようとしただけだと重ねて主張します。三奉行は「国を思っての行動であっても幕府の老中を襲うとは大胆も甚だしい、覚悟しろ」と述べ松陰を伝馬町送りとしたのです。


言わなくても良い罪を自供してしまった松陰は「重罪」となることを覚悟します。松陰に対する取り調べはその後、9月5日(二回目)と10月5日(三回目)に行われました。


二回目と三回目の取り調べは奉行ではなく吟味役が行っています。このときも松陰は「死を覚悟して要諌をしようとしただけ」だと主張します。吟味役は「相、分かった」として松陰の主張を聞き入れたのです。


厳しい詮議を覚悟していた松陰ですが、この吟味役の態度に「重い罪にはならないだろう」との感触を得ます。


10月6日には門下生の飯田正伯に宛てた手紙で「死罪は免れ遠島にもならないだろう。重くても他家預かり、軽ければ野山獄入りの処分で済むかもしれない」と記述しています。


10月7日になると松陰同様 安政の大獄で投獄されていた橋本佐内(はしもとさない)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、飯泉喜内(いいずみきない)が処刑されます。


これを聞いた松陰は10月8日に高杉晋作に宛て手紙を書いています。その内容は「橋本佐内や頼三樹三郎は、公然と幕府と敵対したため斬られてもおかしくはないが、飯泉喜内までもが斬られたとなると、私も斬られることはないにしても遠島は免れないかもしれない」と述べています。


橋本佐内、頼三樹三郎、飯泉喜内は、将軍後継争いで一橋慶喜を擁立して井伊直弼と対立したことから安政の大獄で捕縛されました。


橋本佐内と頼三樹三郎はいわゆる尊皇の志士として知名度があり、幕府にとって危険人物であったことから斬首となってもおかしくはないが、それほど目立った存在ではない飯泉喜内までもが処刑されたとなると自分も重罪になるのではないかと松陰は考えたのです。


生と死の挟間で揺れ動く松陰!


松陰には危機感はあったものの、「間部要諌」という松陰の主張を聞き入れてくれたのだから「自分の罪は処刑されるほど重くはない」と信じていたようです。


10月16日四回目の取り調べが行われました。この日は一回目と同じく三奉行が取り調べを行いますが、三奉行はこれまでの取り調べで得た松陰の自白をもとに供述書を作成していたのです。


その供述書を見た松陰は愕然とします。松陰がこれまで主張してきた「間部要諌」については「要撃」と記述され、さらに「老中間部への諌言が聞き入れられないときは、間部と刺し違え、護衛の者が邪魔をすればこれを切り払う計画であった」と書き足されていたのです。


「間部と刺し違える」「切り払う」といったことを松陰は供述していません。でっちあげの供述書を読んだ松陰は、何としても自分を処刑しようとする幕府の強い意志を感じとります。


松陰は、勘定奉行 池田播磨守と町奉行 石谷因幡守を相手に論争を展開しますが、どうあがいても死罪を免れることはできないことを悟ると供述書に署名をするのです。


松陰はこのときの気持ちを留魂録に記しています。


「幕府の謀(はかりごと)によってわたしは罪に陥れられたのだが、事ここに至っては刺し違えるや切り払うということを否定したのではかえって激烈さを欠き、同士や友も惜しいと感じるだろう。


私もそう感じないわけではない。しかしながら何度もこのことを考えると、仁のために死ぬのだから、このような言葉の得失にこだわるべきではない。今日、私は権力による謀略で殺されるのです。このことを神は御覧になっているのだから、何も残念に思うことはありません」


供述書に署名をしたことで松陰は死を覚悟します。残されたわずかな時間を使い家族へ別れの手紙を書きます。


そして、処刑される前々日(10月25日)から松下村塾の塾生に宛てた遺書「留魂録」の執筆に取り掛かるのです。

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