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吉田松陰と久坂玄瑞(くさかげんずい)

久坂玄瑞(くさかげんずい)
*久坂玄瑞(くさかげんずい)

のちに松下村塾の四天王と呼ばれ、松陰の妹文と結婚することになる久坂玄瑞(くさかげんずい)とはどのような人物だったのでしょうか。


久坂玄瑞は、長州藩医 である父久坂良迪(くさかりょうてき)と母富子(とみこ)の三男として1840年に萩の平安古(ひやこ)で誕生しました。


幼名は秀三郎、のちに義助、玄瑞、実甫、江月斎を名乗ります。松陰よりも10歳年下、文よりも3歳年上になります。


幼少時から学問の才があり、吉松淳蔵(よしまつじゅんぞう)の寺子屋で学び、長州藩の医学校である「好生館」に入学します。


秀才として期待された玄瑞ですが、14歳で母を失い、さらに翌年には長兄(玄機 げんき)と父を失い天涯孤独の身となります(次兄は早世)


17歳で九州へ遊学の旅に出ますが、このとき肥後藩士宮部鼎蔵(みやべていぞう)から吉田松陰に会うことを勧められます。


その前にも、兄の知人である月性(げっしょう)から松陰の話しを聞いていたこともあり、玄瑞は松陰に興味を持つようなります。


明倫館の講師である土屋蕭海(つちやしょうかい)の紹介状を持ち、松陰に面会を求めた玄瑞は、松陰には直接会わずに手紙を渡しました。


その手紙には、「アメリカとの条約を破棄して、米使を斬るべきだ」とする玄瑞の考えが書かれていました。


これを読んだ松陰は、「出来もしないことを公言するのは思慮が浅い。僕はこの種の文を憎み、この種の人を憎む」と酷評します。


その後、何回か松陰と手紙のやり取りを行った玄瑞は、松陰の聡明さと誠実な人柄に感服して松下村塾の門下生となります。


松陰の教えを受けた玄瑞は、その才をいかんなく発揮し、同じく門下生であった高杉晋作と並び松下村塾の双璧と言われるようになります。


松陰は、玄瑞と晋作を競わせ、切磋琢磨させることで彼らの成長を促進させたのです。1857年には松陰の妹である文と結婚をします(玄瑞18歳、文15歳)


好生館の寮で暮らしていた玄瑞は、結婚を機に杉家で生活をするよになり、松陰を助け塾の運営に協力していきます。


松陰の義理の弟となった玄瑞ですが、松陰のことを先生と呼んでいたので、文が「先生ではなく兄と呼んでください」と言ったとする逸話が残っています。


松陰は玄瑞の才に大きな期待をします。知人に送った手紙の中で「玄瑞行年十八、才あり気あり、駸々として進取す」(玄瑞は18歳ですが、才能があり気概もあります。みずから進んで物事に取り組み飲み込みも早い)と評しています。


1858年になると玄瑞の江戸行きが決まります。藩に願い出ていた江戸遊学が許可されたのです。松陰は江戸に滞在している桂小五郎に手紙を書きます。


「久坂玄瑞が江戸に遊学します。僕の同志の士につき、何事もあなたに相談するように言っておきました。江戸でしばらく学ばせたのち、信州の佐久間象山に従学させればまことによいと思う。このことについても、相談にのってやってもらいたい」


玄瑞に対する期待のほどがうかがえる内容になっています。松陰はたくさんの紹介状を書き玄瑞に持たせました。これにより、玄瑞は著名な学者や各藩の志士たちと交流することができ、多くのことを学ぶことができたのです。


玄瑞は明倫館で学んだ同志や松下村塾の仲間とともに、江戸や京において政治活動を行いますが、1858年6月19日幕府は、朝廷の勅許を得ることなく独断で日米修好通商条約を締結して
しまうのです。


憤慨した玄瑞は仲間とともに対抗策を模索しますが、師である松陰は彼らの想像を超える策を進めていました。それが幕府老中 間部詮勝(まなべあきかつ)要撃計画です。


これに驚いた玄瑞は江戸滞在中の仲間とともに自重するよう松陰に手紙を送ります。これを読んだ松陰は憤激しますが、松陰の過激な行動に手を焼いた長州藩は、松陰を再び野山獄に投獄します。


再投獄された松陰の言動は萎えるどころかますます盛んになり、獄中で伏見要駕策を計画し、これを入江杉蔵と野村和作兄弟に実行させることにします。


しかし、これを察知した玄瑞と小田村伊之助によって計画は阻まれ、入江杉蔵と野村和作は捕えられ岩倉獄に投獄されてしますのです。


玄瑞と小田村伊之助は、孤立してますます過激になる松陰を何とか自重させようと必死の説得を試みます。


しかし、松陰の計画は幕府に知られるところとなり、1859年5月14日松陰の江戸送りの幕命が長州藩に伝えられます。


玄瑞と小田村伊之助は何とか阻止しようと奔走しますが、願いは叶わず5月24日に萩から江戸に送られてしまうのです。


伝馬町の牢獄に収監された松陰は、取り調べを受けたのち斬首となりました。松陰の死が萩に知らされると、門下生たちは泣き崩れ激高します。


玄瑞は松陰の義理の弟として門下生をまとめ、松陰の志を遂げるべく政治活動に邁進します。尊皇攘夷運動における長州藩の若きリーダーとなった玄瑞は、藩の重役 周布政之助(すふまさのすけ)の協力を得て藩論を攘夷へと転換させることに成功します。


玄瑞は攘夷を実行すべく、1863年5月馬関海峡(下関海峡)を通行する外国船に砲撃を加え海峡を封鎖し、攘夷運動を牽引するのは長州藩であることを日本中にアピールしたのです。


京で勢力を伸ばす長州藩に対し、危機感を持った薩摩藩と会津藩は手を結び、長州藩兵と尊攘派の公家を京から追放します(八月十八日の政変)玄瑞は追放された公家七人とともに萩に帰国します。


玄瑞ら攘夷派は、巻き返しをはかるべく行動を起こしますが、翌年6月に起きた池田屋事件で吉田稔麿、杉山松助を失うことになります。


怒り心頭に達した長州藩攘夷派は、藩兵2000人を京に向けて進軍させます。参謀となった久坂玄瑞は入江九一、寺島忠三郎らととも長州藩の名誉回復と追放された七卿の赦免を朝廷に働きかけるため参陣しますが、来島又兵衛(きじままたべえ)、真木和泉(まきいずみ)ら強硬派に引きずられる形で開戦を決意します。


蛤御門(はまぐりごもん)で長州藩と会津藩が戦闘状態になり、一進一退の攻防を繰り広げますが、薩摩藩の参戦により劣勢に立たされると、来島又兵衛が狙撃され自刃!


久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎も、堺町御門(さかいまちごもん)で、越前藩、薩摩藩と交戦しまが、劣勢を挽回することができず総崩れとなります。


玄瑞は総退却の命令を出すと、長州藩の名誉回復を働きかけるため鷹司邸に入ります。鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)に参内の手はずを懇願するつもりでしたが、すでに輔煕の姿はなく、敵に囲まれ激しい攻撃を受けるのです。


足を負傷した玄瑞は「もはやこれまで!」と観念し、体力が残っていた入江九一に後事を託し、寺島忠三郎と互いに刺し違えて自刃するのです(寺島を介錯したのち、玄瑞は自ら割腹したとする説もあります)久坂玄瑞 享年25。


後事を託された入江九一は、鷹司邸からの脱出を試みますが、敵の槍を受け目を負傷!その場で自刃して果てました。

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