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小田村伊之助(おだむらいのすけ)・楫取素彦(かとりもとひこ)

楫取素彦(かとりもとひこ)・小田村伊之助(おだむらいのすけ)
*楫取素彦(小田村伊之助)


小田村伊之助(おだむらいのすけ)は1829年長州藩医である松島瑞蟠(まつしまずいばん)の次男として誕生しました。小田村伊之助(楫取素彦)の兄弟は、姉二人(一人は早世)と兄剛蔵(ごうぞう)、弟健作(けんさく)がいます。


吉田松陰が1930年生まれですから、伊之助は松陰より一歳年上になります。伊之助の父松島瑞蟠は長州藩の鍼医(しんい、はりい)です。鍼医とは鍼を使って患者を治療する医者のことで、瑞蟠は長州藩から40石の録を受けていましたが、藩医なので武士の身分はありませんでした。


吉田松陰の実家杉家は禄高26石ですから、伊之助の実家松島家のほうが少し禄高は多いのですが、どちらの家も生活はとても苦しかったそうです。小田村伊之助と吉田松陰の境遇はよく似ています。


貧しい家庭に育ちながらも両家とも教育熱心であったため、幼いころから学問を学ぶ環境が整っていました。さらに幼くして他家へ養子に行き、それによって道が開けたのです。


伊之助が四歳のときに父瑞蟠が病没します。松島家の家督は兄の剛蔵が継ぎ、伊之助は十二歳のときに小田村吉兵(おだむらきちへい)の養子となります。


小田村家は長州藩の藩校明倫館の儒官(学者)を務める家柄であったため、伊之助は将来明倫館で教鞭をとることができる身分となったのです。


兵学師範の家柄である吉田家の養子となったことで、明倫館で山鹿流軍学の講義を行うことになった松陰と同じですね。伊之助も松陰も学問で身を立てたのです。


1847年になると義父吉兵が亡くなり、伊之助は19歳で小田村家の家督を継ぐことになります。明倫館での勤務が始まると、伊之助は江戸勤務となります。当時の江戸には優れた学者が多く集り私塾を開いて講義を行っていました。


長州藩では、江戸に滞在する家臣のために、江戸上屋敷内に藩校有備館(ゆうびかん)を開校しており、伊之助はこの有備館で佐藤一斉(さとういっさい)や安積艮斎(あさかごんさい)の講義を受けます。伊之助は他藩の優れた学者の講義を受け彼らと接することで、自分の知識や見識をさらに広げることができたのです。


この江戸勤務中に伊之助は吉田松陰と親しくなります。ともに明倫館勤務であったため、顔見知りであったもののそれほど親しい付き合いはしていませんでした。江戸でともに学び語り合うことで両者の距離が近くなったのです。


1853年に江戸勤務が終わり長州に帰国した伊之助は25歳で松陰の妹寿(ひさ)と結婚します。しかし、翌年浦賀にペリーの黒船が来航すると伊之助の周辺はにわかに騒がしくなります。


ペリーの来航に触発された松陰が密航を企てますが失敗!長州に戻され野山獄に投獄されたのち、自宅謹慎となり松下村塾を開きます。


伊之助は明倫館での勤務のかたわら松下村塾の経営にも助力していたようですが、多忙であったため、あまり多くの時間を割くことができませんでした。


次第に過激な思想に傾倒していく松陰は、幕府老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企てた罪で投獄されると、松下村塾の運営を伊之助に託し刑死となります。


伊之助は松陰の志を受け継ぎ松下村塾の運営に携わりますが、藩主毛利敬親の側近に取り立てられたことで運営から離れ藩政に携わることになりました。


長州藩では松下村塾出身者を中心とする尊皇攘夷派(正義派)が権力を握りますが、1863年八月十八日の政変により長州藩は京から追放されます。翌年には勢力の回復を目指し禁門の変を起こしますが、薩摩藩と会津藩の反撃を受け多くの藩士が戦死をしてしまうのです。


朝敵となった長州藩では、幕府への恭順を唱える俗論派が権力を掌握し、尊皇攘夷派(正義派)を弾圧します。松陰の義理の弟である伊之助の身も危うくなったため、藩主の毛利敬親は伊之助を小田村素太郎(おだむらもとたろう)と改名させます。


しかし、俗論派によって捕えられた伊之助は野山獄に投獄されてしまうのです。伊之助の兄である剛蔵は、高杉晋作や久坂玄瑞らとともに尊皇攘夷、尊王討幕運動を積極的に行っていたことから、野山獄に投獄されたのちに俗論派によって処刑されてしまいます。


素太郎も死を覚悟しますが、高杉晋作が挙兵し俗論派を掃討したことで九死に一生を得るのです。釈放された素太郎は、藩主の毛利敬親の側近として再び活動を再開すると、桂小五郎と坂本龍馬を引き合わせるという重要な役割を担います。


素太郎の活躍を喜んだ敬親は、素太郎を武士の身分に取り立て、名を楫取素彦(かとりもとひこ)と改めさせるのです。楫取素彦は、明治新政権下において足柄県参事、熊谷県権令、熊谷県令に就任します。


足柄県は現在の神奈川県西部で熊谷県は現在の群馬県です。参事は現在の副知事、県令は知事に該当します。素彦は、1876年から1884年までの8年間群馬県知事として、養蚕を推奨し群馬の産業の発展に尽力しました。


儒官(学者)出身だけあって、特に教育の普及に力を入れたようで、群馬県の就学率を全国有数にまで押し上げます。県知事として活躍する素彦ですが、その一方で私生活では大きな試練が訪れます。素彦を支え続けてきた妻楫取希子(寿から希子に改名)が1881年に病没します。


希子の母滝は、希子の妹で久坂玄瑞の未亡人であった文と素彦の再婚を取り計らいます。滝の強い勧めもあり素彦(55歳)と文(41歳)は1883年に再婚します。この再婚を機に文は名を美和子に改めました。


群馬県知事を退任した素彦は、その功績により元老院議官に選ばれ、さらに1888年には華族となり男爵の地位を授かります。1830年には明治天皇の第十皇女貞宮多喜子内親王(さだのみやたきこないしんのう)の養育係となり、翌年には宮中顧問官(きゅうちゅうこもんかん)となります。宮中顧問官は、明治政府の名誉職的な役職です。


晩年には山口県防府(ほうふ)に移住して妻美和子とともに穏やかな生活を送ります。素彦は1912年8月14日に没します。幕末から明治にかけて、多くの若者が命を落とす中、激動の時代を生き抜いた素彦は84歳の長寿をまっとうしたのです。

楫取素彦と楫取美和子
*貞宮御殿で撮影された写真。前列中央の男性が素彦、向かって右隣が美和子

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