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松下村塾四天王 入江九一(いりえくいち)・入江杉蔵(いりえすぎぞう)

入江杉蔵(いりえすぎぞう)【のちに改名して入江九一(いりえくいち)】は、長州藩の足軽であった父入江嘉伝次(いりえかでんじ)の嫡男として、1837年萩の土原(ひじわら)で誕生しました。


吉田松陰よりも7歳年下、高杉晋作より2歳上、久坂玄瑞より3歳上になります。弟に和作(野村靖、のちの内務大臣)、妹にすみ(伊藤博文の最初の妻)がいます。


20歳のときに父が亡くなり家督を継ぎますが、入江家はとても貧しかったため、長州藩江戸屋敷の小役人として働くことになります。


1858年7月 飛脚として萩に使いしたときに、その足で松下村塾を訪れ吉田松陰と面会をします。


杉蔵が松下村塾を訪れたのは、前年に弟の和作が入塾していて、松陰の話しを聞いていたからです。このときの数日間で松陰の人柄と教えに心酔した杉蔵は、11月になると正式に門下生となります。


ようやく松陰の教えを受けられることになった杉蔵ですが、12月になると幕府老中 間部詮勝(まなべあきかつ)要撃計画が藩に知られるところとなり、松陰は野山獄に投獄されてしまうのです。


杉蔵が松陰から直接教えを受けた期間はわずか一ヶ月ほどしかありません。それにもかかわらず松下村塾四天王のひとりに数えられるのはなぜでしょうか?


門下生の中で松陰の思想に最も近かったのが杉蔵だったと言われています。思想や考え方が同じであったため杉蔵は松陰の教えを忠実に実行しました。


杉蔵が入塾したころの松下村塾は最盛期を過ぎていました。1858年6月に幕府が日米修好通商条約を締結し、これに反対する攘夷派志士たちの弾圧が始めると、松陰の思想はさらに過激になっていきます。


より激烈になっていく師についていけなくなった門下生たちは、松陰のもとを離れていきます。江戸で活動していた久坂玄瑞や高杉晋作までもが松陰を諌めるようになります。


孤立感を深める松陰のもとに残り、師の教えを忠実に守ろうとする杉蔵は松陰の最も信頼できる弟子となったのす。


野山獄に投獄された松陰は、獄中から伏見要駕策を計画しこれを杉蔵、和作兄弟に実行させます。弟の和作を上洛させるため、杉蔵は苦しい生活の中から何とか旅費を工面します。


師の計画を実行に移すため、和作は松陰の密書を携え萩を出発しますが、この計画も藩の知るところとなり、杉蔵、和作ともに捕縛され岩倉獄に収監されてしまうのです。


投獄された場合、食費などの負担はすべて家族持ちでした。ただでさえ貧しかった入江家では、杉蔵と和作二人分の生活費を負担しなければならず家族は困窮します。


松陰は獄中から杉蔵と和作の母まちにあてて手紙を書くとともに、藩に対し二人の食費を支給するよう願い出ています。


松陰は岩倉獄に投獄された杉蔵と和作に対し多くの手紙を書いています。ときには激烈に、ときには二人を気づかいながら、獄につながれ何もできない状況に焦燥感をつのらせます。


1859年4月19日、松陰の江戸送りが決まります。この知らせを聞いた杉蔵は「江戸行きの件、どうか間違いであって欲しい」と落涙します。5月25日に萩を出た松陰は、二度と戻ることはなく江戸で刑死となります。


1860年3月になると杉蔵は罪を許され岩倉獄から出ると、亡き師の意思を引き継ぐべく尊皇倒幕運動に身を捧げます。その功績が認められ1863年に士分に取り立てられると、杉蔵から九一へと改名します。


さらに行動は激しさを増し、5月には久坂とともに馬関海峡(下関海峡)を通行する外国船に砲撃を加え攘夷を決行するのです。


奇兵隊の結成にも尽力した九一は、禁門の変では参謀となり、久坂や寺島とともに堺町御門で越前藩、薩摩藩と戦闘を行いますが、劣勢を挽回することができず追い詰められます。


長州藩の名誉回復を働きかけるため鷹司邸に入り、鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)に参内の手はずを懇願するつもりでしたが、その願いはかなわず、敵に包囲されるなか足を負傷した久坂は「もはやこれまで!」と覚悟を決め寺島とともに自刃して果てます!


後事を託された入江九一は、鷹司邸からの脱出を試みますが、敵の槍を受け目を負傷!邸内で自刃してその生涯を閉じます。享年28。

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