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吉田松陰と松下村塾(しょうかそんじゅく)

吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)
*松下村塾

密航の罪で1年2か月野山獄に投獄された吉田松陰は、1855年12月に出獄の許可がおります。名目は病気療養ですが、松陰の才能を惜しむ家族や支援者の嘆願を藩が認めたのです。


牢から出られたものの、蟄居の身であることにかわりはなく、以前のように自由気ままな生活ができるわけではありません。松陰の生活の場は、自宅の一室四畳半の狭い部屋となります。


心配した家族は、野山獄で講義した「孟子」を自分たちにも聴かせてほしいと申し出ます。松陰はこれを快諾し、家族や親族を相手に「孟子」を講じるようになります。


松陰の講義は6か月間続き完了しました。野山獄と自宅での講義を編纂した講義録が「講孟余話」です。松陰の講義は評判となったため、藩に許可を得て親族や近隣に住んでいる子弟たちにも講ずるようになります。


松陰は親戚の久保五郎左衛門(くぼごろうざえもん)が開いていた私塾「松下村塾」を引き継ぐかたちで塾の運営にあたることになります。


「松下村塾」はもともと松陰の叔父である玉木文之進が運営していた私塾です。「松下村塾」の名前は、文之進や松陰の実家がある「松本村」の「本」を「下」に変えて命名したもので「松本村の塾」という意味です。


文之進が、藩の役職に就き多忙になったため休講状態になっていたものを、久保五郎左衛門が名前を継いで運営していました。松陰にとって久保五郎左衛門は、外叔父(松陰の養母久満の義理の兄弟)にあたる人物です。


松陰の叔父であり養父でもある大助の妻久満(くま)が吉田家に嫁ぐときに久保家の養女となったため、久満と久保五郎左衛門は義理の兄弟にあたります。


松陰が引き継いだ松下村塾は、1年ほどは五郎左衛門との共同運営のようなかたちをとっていましたが、1857年11月に杉家の敷地内にあった廃屋を修繕して、8畳一間の校舎を建てると実質的に松陰主催の塾となります。


松下村塾が開講すると、佐々木梅三郎、松崎武人(赤禰武人)、松浦亀太郎(松浦松洞)、吉田栄太郎(吉田稔麿)、増野徳民など多くの若者が入塾します。


塾の評判が高まると、聴講を希望する者が増え手狭になったため、1858年3月に増築を行い18畳半の新塾舎が完成しました。


松下村塾で子弟の教育にあたったのは、松陰の他に小田村伊之助や久保清太郎(久保五郎左衛門の長男)がいました。さらに、野山獄に投獄されていた富永有隣(とみながゆうりん)が赦免されると、これを招へいして講師とするのです。


松下村塾では、身分の上下はなく、講師と生徒も対等の立場で授業が行われました。講師が一方的に講義を行うのではなく、質疑応答を繰り返しながら、時には議論を交わし理解を深めていくスタイルの授業が行われたのです。


また、塾では講義の時間は決まっておらず、塾生が何人か集まれば講義を開始していたため、早朝、夜間問わず授業が行われていました。


講師となり塾生を指導していた富永有隣は、熱心に学ぶ塾生の姿をみて「彼らの学問に対する情熱はすばらしく、成長も早い!この調子だとあと何年もしないうちに教えることがなくなるでしょう。そのとき私たちは何をすればいいのでしょう」と吉田松陰に言いました。


松陰は「塾生たちが学問を学び教養を身につけ、人間としても成長し、何も教えることがなくなるほどの育成ができたなら、それは天下の快事(痛快な出来事)です」と答えたそうです。


松陰が松下村塾で教育にあたった期間は、1856年ー1858年のわずか2年弱という短い期間でしたが、師弟の結びつきは強く、松陰の志を継いだ若者たちが幕末の動乱を駆け抜け、明治という新しい時代を築いていくのです。

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