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楫取素彦と美和(文)の再婚、男爵授与から晩年の生活まで

1883年5月楫取素彦と美和(文)は再婚しました。素彦と美和の再婚については史料がほとんどないため詳細な経緯はわかっていません。


妻の寿を亡くしてから2年間群馬県令として多忙な日々を送っている楫取の身を案じた滝が二人を結び付けたようです。


この時代妻の妹を後妻として迎えることは珍しくなかったようです。実際に寿や美和の兄民治も1873年に妻の亀を亡くしていますが、亀の妹幸を後添いにしています。


美和は再婚には消極的だったようですが、母や兄の強いすすめもありこの話しを受けたようです(このとき美和から美和子に改名)


楫取素彦は、美和子と再婚した翌年8年間務めた群馬県令を退任します。県令として群馬の発展に尽力した楫取を慕い、1892年には高浜公園に「前群馬県令楫取君功徳碑」が建立されました(2014年に高浜公園から前橋公園に移設されました)


群馬県令を退任した同じ年、楫取は元老院議官に選ばれます。さらに1887年になると男爵が授与されます。


明治政府によって制定された華族令に基づき、公家や大名に爵位(公爵【こうしゃく】、侯爵【こうしゃく】、伯爵【はくしゃく】、子爵【ししゃく】、男爵【だんしゃく】)が授けられます。公家や大名以外にも、国家のために尽くし功績が認められた者も新たに華族として迎えられました。

*長州藩出身 主だった家の爵位
公爵・・・毛利家
侯爵・・・木戸孝允(木戸家)
伯爵・・・伊藤博文、山県有朋、井上馨(伊藤博文、山県有朋はのちに公爵、井上馨は侯爵)
伯爵・・・山田顕義、広沢真臣(広沢家)
子爵・・・品川弥二郎、野村靖
男爵・・・楫取素彦
この他にも長州藩からは多くの者が爵位を授与されています。


男爵となった楫取素彦は1890年には貴族院議員に当選しています。


1893年頃に素彦と美和子は三田尻(現在の防府市)に新居を構え移り住みます。三田尻は御船手組であった小田村家ゆかりの地であり、この地で美和子と余生を過ごすことを決めたのです。


政治の第一線から退いた楫取には明治維新の功労者として平穏な生活が用意されますが、1896年になると次男の楫取道明(久米次郎)を芝山巌事件で失うという悲運に見舞われます。


道明を失い悲しみに暮れる素彦と美和子に、明治天皇の第十皇女 貞宮多喜子内親王(さだのみやたきこないしんのう)の養育係主任が命じられます。

貞宮御座所 楫取素彦と美和子*貞宮御座所 楫取素彦と美和子


青山離宮の御殿で貞宮の養育にあたった素彦と美和子ですが、その貞宮がわずか三歳で夭折してしまうのです。


貞宮の養育を最後の御奉公という思いで任にあたっていた二人は大いに落胆します。葬祭の喪主は素彦が務め貞宮の遺品を防府天満宮に奉納しました。


再び三田尻の邸宅で暮らすようになった素彦と美和子は、職務で必要が生じたときだけ東京に上京していたようです。


1912年7月30日明治天皇が崩御すると、その二週間後に楫取素彦が84歳でこの世を去ります。素彦には勲一等瑞宝章が贈られました。


素彦の死から9年後の1921年に美和子もひっそりと息を引き取ります。享年79。素彦と美和子は防府市の大楽寺に葬られています。

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