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鎌倉時代一問一答・全問題

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問題答え
源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府が成立した時期は?1180年・・・侍所の設置
1183年・・・東国支配を認めた宣旨を朝廷が発給
1184年・・・公文所、問注所の設置
1185年・・・守護、地頭の設置
1190年・・・朝廷から右近衛大将(うこのえたいしょう)の地位を与えられた
1192年・・・朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の地位を与えられた
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)と鎌倉殿(かまくらどの)の違いは?征夷大将軍は朝廷の官位(令外官)
鎌倉殿は鎌倉幕府の長の敬称で官位ではありません
鎌倉幕府と主従関係を結んだ武士は?御家人(ごけにん)
鎌倉幕府から与えられる恩賞に対し軍役などを負担することを何といいますか?御恩と奉公(ごおんとほうこう)
鎌倉幕府の重要な財源となった荘園(しょうえん)は?関東御領(かんとうごりょう)
鎌倉幕府の財政基盤となった将軍家の知行国(ちぎょうこく)は?関東御分国(かんとうごぶんこく)もしくは関東知行国(かんとうちぎょうこく)です。
鎌倉幕府が設置した御家人を統率する機関は?侍所(さむらいどころ)
鎌倉幕府の政務・財政を担当する機関の名称は?公文所(くもんじょ)
鎌倉幕府の裁判・訴訟事務を担った機関の名称は?問注所(もんちゅうじょ)
奥州藤原氏を滅ぼしたのちに設置された統治機関は?奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)
鎌倉幕府が九州の御家人を統率するために設置した機関は?鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)
京都の治安維持などを目的に設置された鎌倉幕府の機関は?京都守護(きょうとしゅご)
源頼朝が義経追捕を名目に全国に設置した官職は?守護(しゅご)
大犯三カ条(たいぼんさんかじょう)とは?大番催促(おおばんさいそく)、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕
京都御所と鎌倉御所の警固にあたる任務は?京都大番役(きょうとおおばんやく)と鎌倉番役(かまくらばんやく)
荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)の管理を行うために設置した職は?地頭(じとう)
鎌倉幕府が朝廷に認めさせた反別5升のお米を徴収する権利は?兵粮米(ひょうろうまい)
承久の乱後に任命された地頭は?新補地頭(しんぽじとう)
承久の乱後に任命された地頭の得分(利益)は?新補立法(しんぽりっぽう)
承久の乱以前の地頭(じとう)を何と呼んでいるでしょう?本補地頭(ほんぽじとう)
鎌倉幕府が国衙(こくが)に命じて作成させた土地台帳は?大田文(おおたぶみ)
源頼朝の嫡男で2代将軍となった人物は?源頼家(みなもとのよりいえ)
若狭局(わかさのつぼね)の父で北条氏と対立して殺害された人物は?比企能員(ひきよしかず)
源頼朝の死後鎌倉幕府は13人の有力御家人による合議制となりましたが、この13人とは?北条時政(ほうじょうときまさ)、北条義時(ほうじょうよしとき)、和田義盛(わだよしもり)、梶原景時(かじわらかげとき)、大江広元(おおえのひろもと)、三善康信(みよしやすのぶ)、比企能員(ひきよしかず)、三浦義澄(みうらよしずみ)、足立盛長(あだちもりなが)、足立遠元(あだちとおもと)、中原親能(なかはらちかよし)、二階堂行政(にかいどうゆきまさ)、八田知家(はったともいえ)
石橋山の戦いで源頼朝を救い侍所の所司になった有力御家人は?梶原景時(かじわらかげとき)
相模国三浦氏の一族で侍所別当となった有力御家人は?和田義盛(わだよしもり)
鎌倉幕府初代執権となった人物は?北条時政(ほうじょうときまさ)
鎌倉幕府2代執権となった人物は?北条義時(ほうじょうよしとき)
北条氏の執権政治(しっけんせいじ)とは?鎌倉幕府において将軍を補佐する役割を担っていたのが執権(しっけん)
有力御家人を滅ぼし要職を独占した北条氏による専制政治を執権政治(しっけんせいじ)と呼んでいます。
源頼朝の妻で尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれた人物は?北条政子(ほうじょうまさこ)
鎌倉幕府3代将軍の名前は?源実朝(みなもとのさねとも)
源実朝(みなもとのさねとも)を暗殺した人物は?公暁(くぎょう)
鎌倉幕府4代将軍の名前は?藤原頼経(ふじわらのよりつね)
鎌倉幕府5代将軍の名前は?藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)
摂家将軍(せっけしょうぐん)とは?4代将軍 藤原頼経。頼経の子で5代将軍となった藤原頼嗣を摂家将軍(せっけしょうぐん)と呼びます。3代将軍 実朝が公暁に暗殺され、頼朝の直系が途絶えたことから、摂関家の中から頼朝と親戚関係にある頼経を京から招き将軍としたのです。頼朝の死後は有力御家人による合議制となったため、将軍にカリスマ性は必要なくなりました。幕府にとって将軍は飾りであり、幕府が決めた政策を認証すればよいだけの存在となったのです。
皇族将軍(こうぞくしょうぐん)とは?鎌倉幕府5代将軍 藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)が幕府への謀反の嫌疑で京に送還されると、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の子である宗尊親王(むねたかしんのう)が迎えられ6代将軍となります。7代惟康親王(これやすしんのう)、8代久明親王(ひさあきらしんのう)、9代守邦親王(もりくにしんのう)と続きますが、実権は北条氏に握られ、皇族将軍は名目的な存在でしがありませんでした。
後鳥羽上皇が発した義時追討の院宣を機に起こった戦いは?承久の乱(じょうきゅうのらん)
承久の乱で流罪となった3人の上皇とは?後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)、土御門上皇(つちみかどじょうこう)、順徳上皇(じゅんとくじょうこう)
承久の乱(じょうきゅうのらん)で廃位となった天皇は?仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)
承久の乱後に即位した天皇は?後堀河天皇(ごほりかわてんのう)
西面の武士(さいめんのぶし)と北面の武士(ほくめんのぶし)の違いは?北面の武士は、72代白河天皇(上皇、法皇)が比叡山延暦寺の僧兵による強訴に備えるために設置しました。腕に覚えのある貴族や武士で構成されました。平清盛の父忠盛や源頼朝の父義朝は北面の武士です。
西面の武士は、鎌倉幕府との戦いに備えて82代後鳥羽天皇(上皇)が設置した武士団です。主に西国の御家人や在京の御家人で構成されていました。
朝廷の監視などを行う目的で承久の乱後に設置された幕府の機関は?六波羅探題(ろくはらたんだい)
1225年に新設された執権(しっけん)を補佐する役職は?連署(れんしょ)
1225年に新設された幕府の政策を決定する役職は?評定衆(ひょうじょうしゅう)
1232年北条泰時が制定した51か条の武家法は?御成敗式目(ごせいばいしきもく)
1232年に制定された武家法以降必要に応じて追加された法令は?式目追加(しきもくついか)
鎌倉幕府5代執権の名前は?北条時頼(ほうじょうときより)
裁判の公正、迅速化のために設置された訴訟専門機関は?引付(ひきつけ)
北条氏一門の中で、家督を継ぐ嫡流の名称は?得宗(とくそう)
相模国の御家人三浦氏が1247年に滅ぼされた合戦は?宝治合戦(ほうじかっせん)
執権(しっけん)と得宗(とくそう)の違いは?執権は将軍を補佐する役割で幕府の役職
得宗は北条一門の嫡流(家督を継承する系統、人物)
鎌倉幕府6代執権と7代執権の名前は?6代執権北条長時(ほうじょうながとき)7代執権北条政村(ほうじょうまさむら)
得宗家(とくそうけ)の家臣たちの名称は?御内人(みうちびと)
得宗家(とくそうけ)の家臣筆頭の名称は?内管領(うちかんれい)
1274年と1281年の蒙古襲来(もうこしゅうらい)を何と呼んでいるでしょう?1274年が文永の役(ぶんえいのえき)、1281年が弘安の役(こうあんのえき)
日本征服を試みたモンゴル帝国5代皇帝の名は?フビライ・ハン(クビライ・ハン)
蒙古襲来のときに吹いた暴風雨を何と呼んでいるでしょう?神風(かみかぜ)
幕府は蒙古襲来に備え九州北部の警固を御家人に命じました。この軍役は何でしょうか?異国警固番役(いこくけいごばんやく)
蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)を描かせた肥後国の御家人は?竹崎季長(たけざきすえなが)
蒙古が襲来したときの鎌倉幕府執権は?北条時宗(ほうじょうときむね)
1293年に設置した訴訟機関の名称は?鎮西探題(ちんぜいたんだい)
1285年に起きた内管領(うちかんれい)と御家人の争いは?霜月騒動(しもつきそうどう)
鎌倉幕府9代執権の名前は?北条貞時(ほうじょうさだとき)
1297年御家人を救済する目的で制定した法令は何でしょう?永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)
後深草天皇(ごふかくさてんのう)の系統は?持明院統(じみょういんとう)
亀山天皇(かめやまてんのう)の系統は?大覚寺統(だいかくじとう)
朝廷が2つの系統に分裂したきっかけをつくった天皇は?後嵯峨天皇(ごさがてんのう)
2つの系統が交互に皇位につくことを何と呼んでいますか?両統迭立(りょうとうてつりつ)
鎌倉幕府14代執権の名前は?北条高時(ほうじょうたかとき)
1324年に露見した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の最初の倒幕計画は?正中の変(しょうちゅうのへん)
1331年後醍醐天皇(ごだいごてんのう)二度目の倒幕計画は?元弘の変(げんこうのへん)
鎌倉時代中期から後期にかけて現れた社会の秩序を乱す反体制的な武士集団は?悪党(あくとう)
1333年鎌倉に攻め込み鎌倉幕府を滅亡させた武将は?新田義貞(にったよしさだ)
1333年鎌倉幕府滅亡後に行われた後醍醐天皇による政治は?建武の親政(けんむのしんせい)
後醍醐天皇の大内裏造営計画(だいだいりぞうえいけいかく)とは?鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、天皇親政の象徴として大内裏の再建を計画し、大内裏を再建することで、世の中の人に天皇の権威を示そうとした
後醍醐天皇の建武の親政における主要機関名と役割について記録所(きろくしょ)・・・行政と司法を担当した機関
雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・・・所領に関する訴訟を担当した機関関
恩賞方(おんしょうがた)・・・鎌倉幕府の滅亡~建武の親政開始において、功績のあった者に対する論功行賞を担当関
武者所(むしゃどころ)・・・京都の治安維持を担当。長官である頭人(とうにん)は新田義貞が任命され、構成員のほとんどを新田一族が占めていました関
鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)・・・足利直義が成良親王(なりよししんのう)を奉じて関東に下り、関東統治のための機関として設立関
陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)・・・北畠顕家が義良親王(のりよししんのう)を奉じて東北に下り、東北統治のための機関として設立
後醍醐天皇の親政を風刺した落書は?二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)
1335年鎌倉幕府再興をはかり北条時行(ほうじょうときゆき)が挙兵した事件は?中先代の乱(なかせんだいのらん)
北条時行が鎌倉に侵攻した際に足利直義によって殺害された後醍醐天皇の皇子は?護良親王(もりよりしんのう・もりながしんのう)
天皇の言葉を蔵人(くろうど)が文書にして発給した命令書は?綸旨(りんじ)
1336年足利尊氏再起のきっかけとなった九州での戦は?多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)
1336年勢力を回復した足利尊氏が摂津国で天皇方と戦闘を行います。この戦いは?湊川の戦い(みなとがわのたたかい)
1336年足利尊氏によって擁立された天皇は?光明天皇(こうみょうてんのう)
北朝の天皇が歴代天皇に数えられていない理由は?徳川光圀が編纂した「大日本史」が南朝を正当な皇室と認識していたため、この考えを受け継いだ明治政府も南朝を支持したからです。議会でも議論(南北朝正閏論)が行われ紛糾しますが、最終的に明治天皇が南朝の正当性を認めたことで決定しました。
1336年足利尊氏が示した政治の基本方針は?建武式目(けんむしきもく)