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真田丸(さなだまる)真田信繁(幸村)の生涯 コンテンツ一覧

松代藩家督争い 真田信之93歳の大往生

*松代藩主 真田信之系図(さなだのぶゆきけいず) 大坂夏の陣で大坂方は敗北し、豊臣秀頼と淀殿は家臣とともに自害して果てます。真田信繁は討死し息子の大助は秀頼に殉じました。

天王寺の戦い真田信繁討死 真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)

*天王寺の戦い 茶臼山真田信繁の突撃 真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの) 天王寺の戦いで真田信繁は茶臼山に陣を構えます。茶臼山は冬の陣で徳川家康が本陣を置いた場所です。

大坂夏の陣 天王寺の戦い毛利勝永の活躍!本多忠朝、小笠原忠脩討死

*大坂夏の陣 天王寺の戦い布陣図 道明寺の戦い、八尾・若江の戦いで敗れた大坂方は、茶臼山と天王寺を防衛ラインと定め守りを固めます。 茶臼山には真田信繁、天王寺口には毛利勝永、

大坂夏の陣 八尾・若江の戦い木村重成討死!長宗我部盛親敗走!

*大坂夏の陣 八尾・若江の戦い布陣図 ・八尾・若江の戦い豊臣方、徳川方の兵力 徳川勢およそ12万(先鋒部隊 藤堂高虎5千、井伊直孝3千) 豊臣勢 木村重成およそ6千(山口弘定

大坂夏の陣 道明寺の戦い後藤又兵衛、薄田兼相(隼人)討死

*大坂夏の陣 道明寺の戦い布陣図 小松山付近 道明寺の戦い豊臣方、徳川方の兵力 徳川勢およそ3万5千 水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗、松平忠輝 豊臣勢 後藤又兵衛およそ

大坂夏の陣始まる! 樫井(かしい)の戦い 塙団右衛門討死

大坂冬の陣の和睦により豊臣と徳川の戦いは一時的に停戦となります。 大坂城では和睦に反対する牢人衆たちの不満が高まり再戦を望む声が日増しに強まると、主戦派の大野治房が大坂城の蔵を

大坂冬の陣 難航する和睦交渉と大砲(カルバリン砲)の砲撃

大坂冬の陣における和睦交渉は真田丸の攻防が行われる前から秘密裏に行われていました。 木津川口の戦いから野田・福島の戦いまで徳川方がすべて勝利をおさめていたため、不利な条件を突き

大坂冬の陣 真田丸の攻防 史料による通説を検証

*大坂冬の陣布陣図・真田丸の攻防 大坂冬の陣最大の見せ場は何といっても真田丸の攻防です。木津川口の戦い、鴫野・今福の戦い、 博労淵の戦い、 野田・福島の戦いで豊臣方はすべて敗

真田丸(さなだまる)の構造 史料による通説と新説

*半円形の真田丸を描いた絵図 大坂冬の陣 最大の見せ場である「真田丸の攻防」に関しては、様々な史料に記載がありますが、真田丸の構造に関しては不明な点がいくつもあり謎となっていま

博労淵の戦い 橙武者(だいだいむしゃ)薄田兼相(隼人)

徳川家康は難攻不落の大坂城を攻めるため、まず第一段階として城の周辺に築かれていた豊臣方の拠点を潰していきます。 木津川口の戦いの勝利で大坂湾への出入り口を押さえると、次の鴫野

大坂冬の陣・鴫野・今福の戦い(しぎのいまふくのたたかい)

大坂冬の陣において真田丸の攻防を除くと、一番の激戦地となった場所が鴫野・今福(しぎの・いまふく)です。鴫野と今福は大坂城の北東に位置しており豊臣方が柵を築き防御を固めていまし

大坂冬の陣・木津川口の戦い

大坂冬の陣において最初に本格的な戦闘が行われた場所が木津川口です。木津川は大坂城の西側に位置しており大坂方では砦を築き五人衆のひとり明石全登がおよそ800人の兵で守りを固めて

大坂冬の陣 徳川家康、秀忠の出陣と本陣茶臼山

大坂冬の陣における徳川軍の兵力は20万ともいわれています。徳川家康はこの大軍をどのように編成したのでしょうか? まず、駿府の家康は10月1日に諸大名に出陣を命じています。当時

大坂城での軍議 対立する真田信繁と大野治長(おおのはるなが)

大坂冬の陣で豊臣方の兵力は10万~13万といわれていますが、豊臣恩顧の大名はひとりも入城せずにそのほとんどが食いつめ牢人でした。 大坂方の兵力の内訳は、 ・大野治長(おおのは

大坂の陣と牢人五人衆(真田 長宗我部 毛利 後藤 明石)

1614年11月 九度山を脱出した真田信繁は大坂城に入城します。大坂にはすでに豊臣に味方をする牢人衆が多数集まり、その数は10万を超えていたとされています。 しかし、豊臣秀頼と

真田信繁の九度山脱出と大坂入城 狼狽する家康「籠城したのは親か子か?」

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)で豊臣家の重臣片桐且元(かたぎりかつもと)が徳川家康の元に走ると、徳川、豊臣間の緊張は一気に高まります。 もはや戦を避けることが困難

真田信繁の手紙 九度山での生活 借金と酒

1611年6月4日 真田昌幸は配流の地九度山で65年の生涯を閉じます。 昌幸に従い九度山で生活をともにした小山田治左衛門、池田長門守、原出羽守、青木半左衛門、川野清右衛門、窪田

真田信幸から信之への改名と上田、沼田9万5千石の大名

関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍についた真田信幸は、戦後の論功行賞で大幅な加増を受けます。 信幸が領有していた沼田領2万7千石は安堵され、父昌幸の所領上田領3万8千石も信幸に与えら

九度山(くどやま)での蟄居生活と真田昌幸の死

*常山紀談  真田昌幸 九度山での蟄居生活 1600年9月15日天下分け目の関ヶ原の戦いは、わずか一日で決着がつき東軍が勝利をおさめました。 西軍の石田三成、小西行長、安国寺

真田家の関ヶ原 第二次上田合戦!

*江戸時代初期の上田城 真田昌幸、信幸、信繁は関ヶ原の戦いの本戦には参加していません。真田家にとっての関ヶ原は、第二次上田合戦と呼ばれた真田対徳川の直接対決です。 戦後徳川家

犬伏の別れ(いぬぶしのわかれ)昌幸、信繁の入城を拒絶した稲姫(小松殿)

1598年8月豊臣秀吉がこの世を去ります。 秀吉の遺言により政治は徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の有力大名と石田三成、浅野長政、前田玄以、長束正家、増田長盛

豊臣秀次謀反の罪で切腹!三条河原で一族三十余名が処刑

*秀吉の甥 関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ) 豊臣秀吉が晩年に行った悪行のひとつが「豊臣秀次切腹事件」です。 関白が切腹をするというだけでも前代未聞の大事件なのですが、さらに

豊臣秀吉の姉ともの子 秀次、秀勝、秀保

豊臣秀吉は姉「とも」、弟「秀長」、妹「旭」の四人兄弟です。 秀吉の母なか(大政所 おおまんどころ)と織田信長の足軽だった木下弥右衛門(きのしたやえもん)との間に生まれた子がとも

徳川家康関東への国替えと真田信幸の独立

*北条討伐後の領地 徳川家康関東への国替えと豊臣秀吉の包囲網 1590年7月5日 北条氏直は降伏して小田原城を明け渡します。豊臣秀吉は主戦派の北条氏政、氏照、松田憲秀、大道寺

北条討伐 北国軍に加わった真田昌幸

*真田昌幸(北国軍)北条討伐侵攻ルート 徳川家康からの知らせで名胡桃城(なぐるみじょう)事件を知った豊臣秀吉は烈火のごとく怒ります。 秀吉は1587年12月に大名間の私闘を禁

沼田城の引き渡しと名胡桃城(なぐるみじょう)事件

*名胡桃城と沼田城 1589年7月豊臣秀吉は沼田領問題の裁定を下します。この裁定を受け入れた真田と北条は、早速沼田城の引き渡しに着手します。 秀吉は家臣の津田盛月(つだもりつ

豊臣秀吉による沼田領問題の裁定

*上野国 真田の領地 沼田領と吾妻領 四国の長宗我部を服従させ、東海の徳川家康を懐柔し臣下の礼をとらせた豊臣秀吉は、1587年3月 25万の大軍を率いて九州に上陸し薩摩の島津

真田昌幸の上洛、秀吉の命令で徳川家康に臣従する

1586年10月徳川家康は大坂城に赴き豊臣秀吉に謁見します。家康が秀吉の臣下になったことは、真田昌幸の立場に大きな影響を与えました。 秀吉は真田昌幸と小笠原貞慶(おがさわらさだ

豊臣秀吉に「表裏卑怯(ひょうりひきょう)の者」と評された真田昌幸

第一次上田合戦で徳川の大軍を退けた真田昌幸は、家康の最大のライバルである豊臣秀吉に接近します。 小牧長久手の戦いの後、根来衆、雑賀衆を討伐して紀州を手に入れた秀吉は、四国に軍勢

豊臣秀吉に接近する真田昌幸 同盟を強化する徳川と北条

*第一次上田合戦後の真田、徳川、北条の動き ー丸子城、沼田城の戦い ー 第一次上田合戦で7千の兵を派遣しながら上田城を陥落させることができなかった徳川家康は、小県に隣接する佐

第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦い

*第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦い 上野の沼田領、吾妻領を巡る真田、徳川、北条の緊張は、1585年になるとピークを迎えます。 室賀正武(むろがまさたけ)を討ち小県を統一

真田丸 真田信繁年表

真田丸 真田信繁に関する年表です。戦国時代から江戸時代初期にかけて、真田家を中心に重大な出来事を年代順に掲載しています。 年代    出来事(事項

真田昌幸の策略 上田城築城と小県の統一

*上田城(尼ヶ淵城)築城と小県の統一 真田の城 1582年は真田家にとって運命を変える年になりました。主家である武田の滅亡、その3ヶ月には武田を滅ぼした織田信長が本能寺の変で

真田昌幸と徳川家康の確執!沼田領問題

*真田、北条、徳川、上杉 本能寺の変後の勢力図 (天正壬午の乱・黒駒合戦) 旧武田領の統治を任されていた滝川一益(たきがわかずます)、河尻秀隆(かわじりひでたか)、森長可(も

真田三代 真田昌幸(さなだまさゆき)系図

*真田三代 真田昌幸(さなだまさゆき) 真田昌幸(さなだまさゆき)は信濃国小県の国人真田幸隆(さなだゆきたか)の三男として1547年に誕生しました。 母は幸隆の正室 恭雲院で

戦国時代 信濃国小県郡(ちいさがたぐん)勢力図

*小県郡(ちいさがたぐん)勢力図 信濃国小県郡(ちいさがたぐん)と隣接する佐久郡(さくぐん)は、平安時代から清和源氏の流れをくむ滋野氏が支配していた土地です。 時代が下ると滋

真田信繁の母 山の手殿 寒松院 薫 

山の手殿(やまのてどの)は真田昌幸の正室です。昌幸との間に二男一女(信之、信繁、村松殿)をもうけました。村松殿については山の手殿の子ではないとする説もあります。 山の手殿は、菊

戦国時代信濃国の城

*戦国時代 信濃国の城地図 飯山城(いいやまじょう)・・・高梨氏の城 葛尾城(かつらおじょう)・・・村上氏の居城 海津城(かいづじょう)・・・武田晴信が長尾景虎に備えるために

戦国時代 信濃国(しなののくに)勢力図

*戦国時代 信濃国地図 現在の長野県にあたる信濃国(しなののくに)は、高井郡(たかい)、水内郡(みぬち)、安曇郡(あずみ)、更級郡(さらしな)、埴科郡(はにしな)、小県郡(ち

真田昌幸 矢沢頼綱を沼田城代に!天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)

*真田昌幸の沼田城、岩櫃城 天正壬午の乱 天目山で武田勝頼・信勝父子が自刃したことで名門武田家は滅亡しました。武田二十四将と呼ばれた人たちの多くは長篠の戦いから天目山に至る過

武田家滅亡!北条か織田か真田昌幸の決断!

*武田家滅亡・甲州征伐(天目山の戦い)の頃の勢力図 長篠の戦いで信綱と昌輝を失い存亡の危機にたたされた真田家を救ったのは真田昌幸でした。 武田の親類衆であった武藤家を継いで武

真田信綱(さなだのぶつな)

*真田信綱(さなだのぶつな)系図 真田信綱(さなだのぶつな)は1537年父真田幸隆(さなだゆきたか)と母恭雲院(きょううんいん)の嫡男として誕生しました。 弟の昌輝(まさてる

真田三代 真田幸隆(さなだゆきたか)と真田氏系図の謎

*真田幸隆(さなだゆきたか)系図 真田一族を語るときに真田三代(さなださんだい)という言葉をよく使います。真田三代とは真田幸隆、昌幸、信繁のことをいいますが、実際に真田家を相

真田家の家紋 六文銭(ろくもんせん)と「六道」「六道銭」

*真田家の家紋 六文銭(ろくもんせん) 家のシンボルとして使用される家紋は一般に普及しているものだけで4千から5千種類あるといわれています。 日本家紋研究会(にほんかもんけん

真田信繁(さなだのぶしげ)誕生

*真田信繁(さなだのぶしげ) 真田信繁(さなだのぶしげ)は1567年父真田昌幸(さなだまさゆき)と母山之手殿(やまのてどの)の次男として誕生しました。 同じ母の兄に信幸(のぶ