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大坂冬の陣 難航する和睦交渉と大砲(カルバリン砲)の砲撃

大坂冬の陣における和睦交渉は真田丸の攻防が行われる前から秘密裏に行われていました。


木津川口の戦いから野田・福島の戦いまで徳川方がすべて勝利をおさめていたため、不利な条件を突きつけられていた豊臣方が反発してまとまらずにいました。


真田丸で多くの死傷者を出した徳川方が本格的に和睦交渉に乗り出したことで話し合いは現実的なものとなっていきます。


和睦交渉の経緯を記した史料としては「大坂陣日記」「大坂御陣山口休庵咄」「武徳編年集成」「譜牒余録」「本光国師日記」「武林雑話」「大坂冬陣記」「慶元イギリス書翰」「徳川実紀」「草加文書」などがあります。


これらの史料を元に交渉の経緯を確認していきます。


和睦交渉にあたった人物は、大坂方が織田有楽斎(おだうらくさい)と大野治長(おおのはるなが)、徳川方が後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)です。


後藤庄三郎は、天正大判を鋳造した彫金師 後藤徳乗(ごとうとくじょう)の弟子で、徳川家康から信頼され御金改役となり金座を統轄した人物です。


和睦交渉で豊臣方が主張した条件は、本領安堵と牢人衆への手当(領地)です。豊臣家にとって秀吉から受継いだ大坂城を失うことは絶対に飲めない条件でした。


また、和睦となれば所領や主君を持たない牢人衆たちは路頭に迷うことになります。そのため和睦に反対する声が強く、城内の意見がまとまらずにいたのです。


牢人衆を説得するためにも領地の獲得を条件に入れたのです。これに対し徳川方は、

1、淀殿が人質となる(江戸に送る)
2、秀頼は大坂城から退去して四国に移る。
3、牢人衆には手当を与える。

という条件を提示します。


豊臣家にとって秀頼の大坂城退去は実現不可能な条件であり交渉は難航しました。徳川家康は豊臣方の譲歩を引き出すべく秘策を用います。


家康はイギリスから最新兵器であるカルバリン砲四門とセーカー砲一門を購入していました。カルバリン砲とセーカー砲は射程距離がおよそ六千メートルもあり、これらの大砲を昼夜の別なく撃ち続けたとされています。


ただし、このとき使用された大砲は最新兵器とはいえ、現在の大砲と比べれば砲弾は小さく(直径10cmほど)炸裂しないただの鉄球です。命中精度も低く、着弾したとしても大きな損害を与えることはできません。


それでも大坂方にプレッシャーを与えたのは、大砲を放つときの砲撃音が大きかったからです。その音は京都にまで届き、茶会の最中に砲撃音が聞こえたと「義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき)」に書かれています(義演は京都醍醐寺の座主)


鉄砲の音とは比較にならないほどの轟音が一日中響けば精神的な疲労は蓄積します。さらに砲弾が大坂城内の櫓に着弾して死傷者を出したことで、城内の意見は和睦へと傾きました。


和睦交渉が再開され、豊臣方では新たに常高院(じょうこういん)が交渉役となります。常高院は浅井三姉妹の次女初です。淀殿の妹であり、秀忠夫人の姉にあたります。


京極高次(きょうごくたかつぐ)
に嫁ぎますが、冬の陣の5年前に夫に先立たれ、出家して常高院を名乗っていました。


一方、徳川方の交渉役は、本多正純(ほんだまさずみ)と阿茶局(あちゃのつぼね)に決まります。


本多正純は家康の側近本多正信の嫡男で、父と同じく家康の側近となり幕政を担当しました。阿茶局は家康の側室ですが、優秀な女性であったようで側近としての役割りも担っていました。


離し合いは京極忠高(きょうごくただたか)の陣中で行われます。12月18日と19日の両日に渡り交渉が行われ、

1、大坂城本丸は残し、惣構の破壊と二の丸の堀を埋め立てる
2、淀殿の代わりに織田有楽斎と大野治長の息子が人質となる
3、豊臣家の本領安堵
4、牢人衆の罪は問わない

以上の点で合意にこぎつけ、12月20日に和睦が成立しました。


秀頼の大坂城退去と淀殿の江戸送りは避けることができたものの、堀の埋め立てと惣構の破壊により大坂城の防衛力は一気に低下することになります。


また、牢人衆の身の安全は保障されますが、手当に関しては曖昧なままであり、和睦反対派の怒りを買います。


行き場のない牢人衆は大坂に留まり、このことが夏の陣の要因となったのです。

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