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九度山(くどやま)での蟄居生活と真田昌幸の死

常山紀談(じょうざんきだん) 九度山で蟄居する真田昌幸
*常山紀談  真田昌幸 九度山での蟄居生活


1600年9月15日天下分け目の関ヶ原の戦いは、わずか一日で決着がつき東軍が勝利をおさめました。


西軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は斬首、長束正家は自刃、増田長盛は配流、宇喜田秀家は薩摩で匿われるも、のちに発見され八丈島に配流となりました。


西軍についた他の大名にも改易や減封の処分がくだされます。上田城で徳川秀忠の軍を足止めさせた真田昌幸と信繁にも当然厳しい処罰が予想されました。


東軍についた真田信幸は、父と弟の助命を徳川家康に願い出ます。舅 本多忠勝の口添えや、必死の嘆願の結果二人の命は助かりますが、昌幸の所領上田は没収され高野山へ配流となりました。


昌幸と信繁は家臣16名とともに真田家の菩提寺である高野山蓮華定院(こうやさんれんげじょういん)に送られたのち、麓の九度山(くどやま)に移り蟄居生活を送ることになります。


家康は紀伊国和歌山を領有した浅野幸長(あさのゆきなが)に真田父子の監視を命じます。浅野幸長は浅野長政の嫡男です。関ヶ原の戦いでは東軍につき戦後の論功行賞で和歌山37万石を与えられました。


浅野家による監視の目はありましたが、流人とはいえ元大名である昌幸と信繁には屋敷が与えられ、九度山周辺であれば移動の自由も認められていたようです。


昌幸の正室 山の手殿は上田に残りましたが、信繁の妻子は九度山に同行して一緒に暮らしています。


九度山の屋敷にどれくらいの人が居たのか正確な人数はわかりませんが、家臣や家族を合わせればそれなりの人数になります。所領を没収された昌幸と信繁にとって家臣と家族を養うことは容易ではありません。


浅野家からは年50石の支給を受けていたようです。もちろんこれだけでは足りないので、信之や親族からの仕送りに頼っていました。それでも足りないときは商人から借金をして賄っていたようです。


九度山での蟄居生活は10年以上にも及びました。その間昌幸と信繁はたくさんの手紙を書いています。


昌幸の四男 昌親(まさちか)が40両を送ってくれることになり、とりあえず先に20両を渡したところ、「借金が多くてどうしようもない。残りの20両もできるだけ早く届けてほしい。生活費が足りずに借金が増えて困っている。五両でも六両でもかまわないので送ってほしい」という催促の手紙を出しています。

「下山できるようとりなしてほしい」

「年明けには下山できるものと期待しています」

「病気になり難儀しています」

「年を重ね気力も乏しくなっています」

最初のころは赦免の嘆願やお金に関するものが多かったのですが、しだいに体調の変化や病気の話題が増えてきました。


徳川政権下で信之(信幸から信之に改名)が大名になっていたこともあり、赦免が許され上田に戻れるという望みを持っていた昌幸ですが、3年、5年、7年と蟄居生活が長引くと、希望は徐々に失われ失意の日々を送ることになります。


結局、昌幸の赦免が許可されることはありませんでした。1611年6月4日 真田昌幸は65歳の生涯を閉じます。


信之は父の葬儀を行いたい旨を本多正信に相談しますが、色よい返事をもらうことはできなかったため、九度山でひっそりと荼毘に付されました。昌幸の遺骸は九度山の屋敷内に埋葬されたとされていますが詳細は不明です。


昌幸、信繁が暮らした九度山の屋敷跡付近に善名称院(ぜんみょうしょういん)が建立されました。この善名称院は別名真田庵(さなだあん)と呼ばれ昌幸の墓があります。


真田家の菩提寺である信濃国「長谷寺(ちょうこくじ)」には昌幸の遺髪と遺品の一部が埋葬されました。また、松代藩真田家の菩提寺「長国寺」には昌幸の供養碑があります。

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