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豊臣秀吉の姉ともの子 秀次、秀勝、秀保

豊臣秀吉は姉「とも」、弟「秀長」、妹「旭」の四人兄弟です。


秀吉の母なか(大政所 おおまんどころ)と織田信長の足軽だった木下弥右衛門(きのしたやえもん)との間に生まれた子がともと秀吉、なかの再婚相手竹阿弥(ちくあみ)との間に生まれた子が秀長と旭です。


ただし、四人とも木下弥右衛門となかの子であるとする説もあり、秀吉と家族の出自については謎となっています。

豊臣秀吉系図(とよとみひでよしけいず)

秀吉の姉ともは百姓であった弥助(三好吉房)と結婚して三人の男子を出産しました。長男の秀次(ひでつぐ)、次男の秀勝(ひでかつ)、三男の秀保(ひでやす)です。


実子のいない秀吉にとって三人の甥っ子は貴重な存在で、天下を平定するまでは勢力拡大の駒として使い、天下を手に入れたあとは、自分の跡継ぎとして利用しました。


三人の中で一番有名な人物が関白となった秀次です。秀吉の養子となり関白職を譲られ後継者と見られていましたが、秀吉と淀殿の間に拾丸が生まれると謀反の疑いをかけられ切腹して果てました。「秀次切腹事件」については別ページで詳しく説明します。


次男の秀勝も兄秀次と同じく秀吉の養子となります。秀勝の名はあまり知られていませんが、淀殿の妹でのちに徳川秀忠の正室となる江の再婚相手です。


秀勝は若くして亀山城主となりますが、所領が少ないことに不満を漏らしたため秀吉から勘当されます。


とものとりなしもあり、越前に5万石の領地を与えられ、北条討伐後には府中城主となり23万石の大名に栄転しました。


しかし、一年足らずで岐阜に転封となります。この原因は遠い関東の地へ移ってしまった息子を哀れんだともが秀吉に懇願したためといわれています。


参議の官職を得た秀勝は「岐阜宰相」と呼ばれるようになり淀殿の妹 江と結婚しますが、文禄の役で朝鮮に出兵し、24歳という若さで病死します。死因はノイローゼ、栄養失調、梅毒など諸説あります。


三男の秀保は叔父秀長の娘おきくと結婚して養子となり、秀長死後はその所領を継承して大和郡山100万石の太守となります。家老として藤堂高虎(とうどうたかとら)が付けられ若い秀保を補佐しました。


朝鮮の役で秀保は名護屋城の在番を命じられ、代わりに藤堂高虎、桑山一晴(くわやまかずはる)ら家臣たちが朝鮮に渡り戦っています。


豊臣秀吉の甥として、関白秀次の弟として期待された秀保ですが、1595年に突如謎の死を遂げます。


死因については疱瘡もしくは麻疹が悪化したうえでの病死。病気療養中に十津川に入水して横死。崖から転落した事故死など諸説あり真相は判明していません。


秀保とおきくとの間に子はなく、秀吉は秀保の所領を没収してしまったのです。


秀吉の姉ともは短期間の間(1592年に秀勝、1595年に秀保と秀次)に大切な息子三人を失うという悲運にみまわれます。


さらに、犬山城主となっていた夫 三好吉房(みよしよしふさ)も、秀次事件に連座して讃岐に流されてしまったのです。


世を儚んだともは仏門に入り、瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)と名を改めます。


後陽成天皇の庇護を受けた日秀は瑞龍寺を(ずいりゅうじ)を建立して子供たちの冥福を弔いながら余生を送ります。


日秀の次男秀勝と江との間に誕生した完子(さだこ)は、のちに関白となる九条幸家(くじょうゆきいえ)の正室となり、ともや豊臣家の血脈を残すことになりました。


また、長男秀次の娘が真田信繁の側室もしくは継室 隆清院(りゅうせいいん)となり、信繁との間に女子(お田)をもうけます。


信繁が大坂の陣で討死にすると、隆清院はお田とともに祖母である日秀に匿われ、その後お田は秋田藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)の弟宣家(のぶいえ)の継室となります。


宣家は岩城家を継ぎ岩城宣隆と名を改め、出羽亀田藩2万石の藩主となりました。お田は宣隆の正室となり御田姫と呼ばれました。

秀吉の姉ともの子 豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保系図

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