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真田家の関ヶ原 第二次上田合戦!

江戸時代初期の上田城(うえだじょう)・古地図
*江戸時代初期の上田城


真田昌幸、信幸、信繁は関ヶ原の戦いの本戦には参加していません。真田家にとっての関ヶ原は、第二次上田合戦と呼ばれた真田対徳川の直接対決です。


戦後徳川家によって上田城は徹底的に破壊されてしまったので、第二次上田合戦の痕跡を見つけるのは容易ではありません。数少ない史料や通説をもとに第二次上田合戦の様子を再現してみます。


犬伏での会談の結果、西軍についた昌幸と信繁は上田に戻り、徳川の軍勢を迎え撃つ準備にとりかかります。徳川家康は下野国小山で軍議を開くと、上杉討伐を取りやめ、挙兵した石田三成を攻撃すべく西上することを決断します。


家康は東海道、秀忠は東山道を西上し美濃で合流する作戦をたてると、8月24日宇都宮の秀忠軍が出陣します。


真田信幸はこの秀忠軍に加わりますが、秀忠軍の第一目標は父昌幸の居城上田城の攻略でした。すでにこのことを知らされていた信幸は、父や弟と刃を交える決意を固めます。


9月1日秀忠の軍勢は信濃小諸に着陣します。第一次上田合戦での苦い経験から、数にまかせての力攻めは行わずに、まずは使者を送り降伏を勧告したのです。


昌幸の説得役には信幸と本多忠政(ほんだただまさ)が選ばれました。本多忠政は本多忠勝の嫡男で信幸に嫁いだ稲姫の弟にあたります。


9月3日信幸と忠政は城内に使者を送り昌幸に降伏を勧告します。昌幸は秀忠と戦う気がないことを告げ、開城するためのしばしの猶予を願い出たのです。もちろんこれは時間を稼ぐための方便です。


上田城の昌幸と信繁は石田三成と連絡をとりあい、尾張と三河の間で家康を討ち果す作戦を練っていました。秀忠の軍勢をできるだけ長く上田城に引きつけておくことで、上方での戦を有利に導こうとする昌幸の作戦でした。


のらりくらりと返事を引き延ばす昌幸に業を煮やした秀忠は9月6日に攻撃を開始!徳川軍3万8千と真田軍3千の間で戦闘の火ぶたが切って落とされました。

第二次上田合戦 真田昌幸対徳川秀忠
*第二次上田合戦


昌幸が上田城、信繁が砥石城に立て籠もり徳川勢を迎え撃ちます。第一次上田合戦では砥石城を守っていた信幸軍が囮となり上田城に徳川軍を引き入れることで真田が勝利しました。


砥石城の重要性を認識していた秀忠は、最初に砥石城の攻略に取り掛かったのです。この攻城軍の指揮を任されたのが信幸でした。


砥石城を守っていた信繁は、兄と戦うことを避け城を明け渡し上田城に退却します。秀忠は砥石城の守備を信幸に任せると、上田城への攻撃を開始します。


砥石城を失った昌幸ですが、今回も巧みな戦術で徳川軍を翻弄します。徳川軍は真田の兵を城外におびき出すため、稲を刈り取る「苅田(かりた)」を行います。


これを見た真田軍は城から打って出ますが、待ち構えていた徳川の攻撃を受け退却します。しかし、この退却は昌幸の作戦であり、秀忠の軍勢を上田城に引きつけると城内から銃弾を浴びせたのです。


大軍ゆえに小回りのきかない秀忠軍は、城内から鉄砲、弓で狙い撃ちにされ混乱状態になります。さらに城の周囲に配置されていた伏兵に襲撃され大打撃を受けたのです。


伏兵による奇襲攻撃を受けた徳川軍は、第一次上田合戦のときと同じく増水していた神川に足を取られ溺死する兵が続出しました。昌幸に翻弄された秀忠は10倍以上の兵力差があるにもかかわらず上田城を落とすことができなかったのです。


秀忠の軍勢は本多正信、榊原康政、大久保忠隣、酒井家次、本多忠政、牧野康成で構成され、まさに徳川家の主力軍です。これだけの面子が揃いながらなぜ上田城を攻めあぐねたのでしょうか?


そのひとつの要因に上田城の防衛力強化があげられます。小田原征伐後の国替えで信濃の大名は関東に移されますが、真田家だけは本領を安堵され信濃に残りました。


豊臣秀吉から徳川の抑えとして期待されていたことが伺えます。秀吉の意向もあり上田城は改修を重ねます。


第一次上田合戦から15年!その間に上田城は櫓などを備えた堅牢な城に生まれ変わっていたのです。たとえ大軍であってもそう簡単に落とすことができない城だったのです。


もうひとつの要因として作戦の変更があげられます。東軍の先鋒部隊である福島正則たち豊臣恩顧の武将は、当初の予定よりも早く岐阜城を陥落させます。


士気の上がった東軍は、家康の到着を待たずに大垣城の石田三成と戦う勢いを見せたのです。これに焦った家康は急ぎ江戸を出立します!大久保忠益を秀忠の元に送り上田城の攻撃を中止してすぐに西上するよう命じました。


しかし、大久保忠益は河の増水で足止めをくらい秀忠の陣に到着したのは9月9日でした。作戦の変更を知った秀忠は押さえの兵を残し急遽西上したのです。


秀忠軍を先行させ上田城を陥落させてから、家康の本軍と秀忠軍が合流して西軍と雌雄を決するという家康の作戦は変更を余儀なくされたのです。


この変更により上田城への攻撃を継続できなくなったことが、上田城を落とすことができなかった最大の要因だと考えられます。


いくら昌幸の戦術が長けていたとしても、10倍以上の敵の攻撃を何度も撃退できるわけがありません。まして攻撃側は徳川の主力部隊です。


信濃の大名のほとんどが徳川についたため昌幸は孤立していました。周囲からの援軍を期待をできない状態で攻撃を受け続ければ、遅かれ早かれ上田城は落城していたでしょう。


このような事態になることを昌幸が予測していたのかは定かではありません。結果として上田城は落城をまぬがれ、秀忠の軍は9月15日に行われた関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。


もし西軍が勝っていれば大きな功績であり、信濃と甲斐二カ国は無理だとしても、信濃一国は手に入れることができたかもしれません。


昌幸にとって誤算だったのは、天下分け目の戦いがわずか一日で決着してしまったことです。東軍を超える兵力を擁しながら、短時間の決戦で敗れた三成に対し昌幸は何を思ったのでしょうか?


真田家の命運をかけた関ヶ原の戦いは終結し、領土拡張という昌幸の野望はここに潰えたのです。

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