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日本史
西郷隆盛と愛加那の長男菊次郎・長女菊草(菊子)。奄美大島に潜居した西郷隆盛は、島の有力者 龍佐民の親族 於戸間金(愛加那)と結婚します。隆盛の二人目の妻になります。夫婦仲はとても良くふたりの間には菊次郎と菊草が誕生しました。藩政に復帰すべく帰国を決意した隆盛は畑と水田を購入すると、愛加那の・・・
西南戦争で戦死した西郷小兵衛(さいごうこへえ)妻松子の証言。西郷隆盛の一番下の弟が小兵衛です。小兵衛は容姿が最も隆盛に似ていたといわれています。小兵衛の妻松子は大山巌の姪なので西郷家とは親戚です。小兵衛は高瀬の戦いで戦死しますが、松子は晩年に鹿児島新聞の取材・・・
西郷従道(じゅうどう)海軍大臣、海軍大将など要職を歴任した隆盛の弟。西郷従道は、兄隆盛亡き後、西郷家の中で一番出世した人物です。最終的には元帥の称号を授かりますが、私生活では長男の従理が留学先の米国で腸チフスにかかり亡くなるという悲劇に見舞われます。まだ10歳という若さでした。
西郷吉二郎(きちじろう)五十嵐川の戦いで戦死した隆盛の弟 。西郷吉二郎は父吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)と母満佐(まさ)の次男として1833年に誕生しました。兄隆盛とは5歳離れており、主君島津斉彬に抜擢され国事に奔走する隆盛に代わり西郷家の家政を任され、弟や妹の養育・・・
薩摩藩邸焼き討ち事件と江戸無血開城「いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」西郷ら討幕派のクーデターを事前に察知していた徳川慶喜ですが、あえて抵抗はせず二条城から大坂城へ移り事態の推移を見つめます。12月25日江戸の薩摩藩邸が庄内藩と旧幕府軍の攻撃を受け焼失するという事件が起こりました。
王政復古のクーデターと小御所会議「短刀一本あれば用は足りもうす」討幕の密勅を携え薩摩に帰国した西郷と大久保は、出兵反対派を抑え藩主島津茂久の上洛を実現させました。茂久と西郷が藩兵1千を率いて入京すると、薩摩藩は徳川慶喜を新政権から排除するための根回しを行い徳川家に辞官納地を・・・
討幕の密勅と大政奉還。薩土盟約を破棄した西郷と大久保は、武力討幕の兵を挙げるための大義名分を必要としていました。調停工作を行い「討幕の密勅」を手に入れた西郷と大久保ですが、徳川慶喜が機先を制して「大政奉還」を行い政権を朝廷に返上します。これにより・・・
薩土盟約(さつどめいやく)四侯会議の分裂により西郷と大久保は討幕へと舵を切ることになりますが、国元の薩摩では久光の次男島津図書らが挙兵計画に反対します。手詰まり感が漂う西郷たちに土佐藩から大政奉還の提案がなされます。薩摩藩在京指導部はこの提案を受け入れ土佐藩との間に薩土盟約を締結しました。
兵庫開港と長州処分をめぐり紛糾する四侯会議。薩摩に帰国して藩政改革の指揮をとった西郷吉之助(隆盛)は10月になると入京して政治活動を再開します。西郷は薩長同盟の約定に従い長州藩の復権を朝廷に働きかけ、さらに雄藩諸侯による会議(四侯会議)を開催すべく奔走します。
第二次長州征伐と徳川家茂の死 倒幕に傾く薩摩藩。幕府は毛利父子の隠居、蟄居と藩領10万石の削減を第一次長州征伐の最終処分とします。薩長同盟を結んだ薩摩藩は大久保利通が老中板倉勝静(いたくらかつきよ)に建白書を提出して幕府を批判すると、第二次長州征伐への出兵を拒否・・・
長州への再征と薩長同盟 「徳川氏の衰運この時と存じ奉り候」。征長総督府の長州藩への処分が寛大すぎると考える幕府は、将軍家茂を上洛させ第二次長州征伐の準備にとりかかります。これを聞いた西郷は「長州への再征は自ら禍(わざわい)を招くようなものであり、幕府の威光をしめすどころか、天下は乱れ、徳川氏は衰退していくでしょう」と・・・
第一次長州征伐 征長総督参謀 西郷吉之助(隆盛)「長人をもって長人を処す」。禁門の変で御所に発砲した長州藩は朝敵となります。朝廷から長州征伐の勅命がくだされると、幕府は諸藩に出兵を命じ征長軍が編成されます。征長総督参謀に任命された西郷は長州の支藩である岩国の吉川経幹(きっかわつねまさ)を動かし説得に・・・