西郷隆盛の別名菊池源吾(きくちげんご)西郷氏と菊池氏
西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識
入水事件で蘇生した西郷吉之助は体力が回復するまでに一か月を要しました。家族は憔悴した吉之助が自刃しないように刃物をすべて隠したそうです。
月照は大久保たちによって南林寺に埋葬されます。藩上層部は西郷も一緒に死んだと幕府に報告し、疑われないように西郷の墓もつくり、処刑した罪人の遺体を埋葬したとされます。
体力が回復した吉之助は奄美大島に送られることになりました。遠く離れた島であれば幕府の追求の手も届かないと判断したのでしょう。
西郷は菊池源吾(きくちげんご)と名を変え奄美大島で隠忍自重の日々を送ることになります。
名を変えたのは幕府の目をくらますためですが、なぜ菊池源吾なのでしょうか。
それは、西郷氏は肥後菊池氏の庶流だと考えられていたからです。
肥後菊池氏は、平安時代から肥後国菊池郡で勢力を持っていた一族です。
承久の乱では朝廷側につき、南北朝の動乱では後醍醐天皇を支持して足利尊氏らの軍勢と戦いました。
九州における南朝勢力の中心として戦い続けた菊池氏は、尊王の一族としてその名を知られるようになります。
その後は、一族の内紛や敵対勢力の侵攻により勢力を縮小し、戦国時代に滅亡しました。
奄美大島で名乗った「菊池源吾」は「わたしのみなもとはきくち」と読むことができます。
また、奄美大島で生まれた長男の名前は菊次郎(きくじろう)であり、長女の名前は菊草(きくそう)です。
西郷氏のルーツが本当に菊池氏なのかは不明ですが、西郷隆盛がそれを信じ誇りに思っていたことは推測できます。