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薩土盟約(さつどめいやく)

-・- 目次 -・-
  • 四侯会議の失敗と武力討幕への転換
    • 徳川慶喜に敗れた四侯会議
    • 国元の薩摩に残る武力討幕への反対論
  • 薩摩藩と土佐藩を結んだ薩土盟約
    • 慶応3年6月22日、京都吉田屋での会合
    • 土佐藩が提案した大政奉還と合議政治
  • 西郷と大久保が薩土盟約に応じた理由
    • 武力討幕の大義名分としての大政奉還案
    • 長州側に伝えられた三都同時挙兵計画
  • 薩土盟約の破棄と薩長芸出兵協定への流れ
    • 兵を率いて上洛できなかった土佐藩
    • 広島藩の取り込みと討幕路線の明確化
西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識

薩土盟約(さつどめいやく)作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
薩土盟約(さつどめいやく)作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

四侯会議の失敗と武力討幕への転換

四侯会議の失敗をきっかけに、西郷と大久保は幕府との妥協ではなく、武力による政権奪取へと方針を傾けていきます。

徳川慶喜に敗れた四侯会議

徳川慶喜の政治力により四侯会議は分裂し、西郷と大久保は手痛い敗北を喫します。幕府と雄藩による新しい政治体制を模索していた薩摩藩にとって、四侯会議の失敗は大きな転機になりました。

慶喜は将軍に就任して以降、幕府の軍事・行財政改革に着手し、制度疲労を起こしていた組織の刷新をはかっていました。慶喜のもとで幕府が再び強大な力を取り戻せば、目の上のこぶである薩摩や長州は、政治的にも軍事的にも追い込まれる可能性があります。

幕府が勢いを取り戻す前に、武力によって政権を奪取する。西郷と大久保は、ここから討幕に向けて大きく舵を切っていくことになります。

国元の薩摩に残る武力討幕への反対論

しかし、国元の薩摩には、西郷たちの方針に異を唱える勢力が存在していました。その中心人物が島津図書です。

島津図書は島津久光の次男で、藩の要職を歴任し、当時は家老に就任していました。幕府の権威が衰えたとはいえ、徳川家は依然として全国支配の仕組みを握る強大な存在です。挙兵が失敗に終われば、薩摩藩は長州藩の二の舞になりかねません。

さらに、軍備の増強や度重なる上洛により、薩摩藩の財政はひっぱくしていました。国元の藩士たちの間にも不満が鬱積しており、在京の西郷や大久保が突き進む討幕路線に反発する空気もありました。

こうした事情から、島津図書は挙兵に断固反対の立場をとります。武力討幕へと路線を転換した西郷と大久保でしたが、藩内反対派の抵抗もあり、一気に事を運ぶところまでは至っていませんでした。

そんな手詰まり感が漂う西郷たちのもとに、土佐藩から思いもかけない提案がなされます。

薩摩藩と土佐藩を結んだ薩土盟約

慶応3年6月、薩摩藩と土佐藩は大政奉還を軸にした盟約を結びます。これが薩土盟約です。

慶応3年6月22日、京都吉田屋での会合

慶応3年(1867年)6月22日、京都三本木の料亭吉田屋で、薩摩藩と土佐藩の会合が開かれます。

薩摩藩からは西郷吉之助、大久保利通、小松帯刀が出席しました。土佐藩からは後藤象二郎、寺村道成、福岡孝弟、真辺栄三郎、坂本龍馬、中岡慎太郎らが出席しています。

この席で土佐藩から提案されたのが、徳川慶喜に将軍職の辞職と政権返上を建白するという策でした。武力で幕府を倒すのではなく、慶喜自身に政権を返上させ、新しい政治体制へ移行させようという構想です。

土佐藩が提案した大政奉還と合議政治

土佐藩の構想は、幕府が政権を朝廷に返上し、朝廷のもとで新しい政治を行うというものでした。これが大政奉還です。

ただし、土佐藩の考えは、徳川家を完全に排除するものではありません。徳川家は一諸侯に戻り、公卿や諸侯、さらには庶民も加えた議事院を設け、合議によって政策を決定する。土佐藩が示したのは、このような公議政体をめざす政治構想でした。

薩摩藩の在京指導部は、土佐藩の提案に賛同します。こうして薩摩藩と土佐藩の間に盟約が結ばれました。

後藤象二郎は土佐に帰国すると、藩主山内豊範と前藩主の山内容堂に詳細を報告します。容堂の了承を得たことで、土佐藩の藩論は大政奉還へと固まっていきます。

西郷と大久保が薩土盟約に応じた理由

武力討幕を目指していた西郷と大久保が、なぜ大政奉還という平和的な策に応じたのか。その背景には、藩内反対派への配慮と大義名分の問題がありました。

武力討幕の大義名分としての大政奉還案

武力討幕をもくろんでいた西郷と大久保は、なぜ大政奉還という平和的な解決方法に賛同したのでしょうか。

これについては諸説あります。有力な見方のひとつは、西郷と大久保が、幕府は政権返上を拒否する可能性が高いと見ていたというものです。つまり、大政奉還そのものに期待したというよりも、幕府が土佐藩の建白を拒否したときに、武力討幕の大義名分を得ようとしたという考え方です。

西郷と大久保にとって気がかりだったのは、藩内にいる反対派の動向でした。幕府が平和的な政権返上を拒んだとなれば、挙兵に反対する人々を説得しやすくなります。薩土盟約は、討幕へ進むための政治的な布石でもあったのです。

長州側に伝えられた三都同時挙兵計画

西郷は村田新八を長州に派遣し、薩土盟約の詳細を伝えます。しかし、長州藩は薩摩の心変わりを警戒していました。そこで、御堀耕助と柏村数馬を京へ送り、薩摩藩の真意を確かめようとします。

小松邸を訪れた御堀と柏村は、薩摩藩指導部に武力討幕の是非を問いただしました。これに対して西郷は、土佐との盟約は武力討幕の大義名分を得るための手段であると説明し、さらに京、大坂、江戸での挙兵策をあかしたとされています。

長州側の史料によると、このとき西郷は、京にいる薩摩兵1千で御所をおさえ、会津藩邸を急襲すること、薩摩本国から3千の兵を上洛させて大坂城をおさえること、江戸に滞在している藩兵1千が甲府城に籠城して幕軍の上洛を阻止することなどを説明したとされます。これは三都同時挙兵計画と呼ばれる構想です。

この話が事実であれば、西郷と大久保は武力による討幕の方針を変えていなかったことになります。薩土盟約は、平和的解決への転換というよりも、反対派を抑えるための保険としての意味が大きかったとも考えられます。

薩土盟約の破棄と薩長芸出兵協定への流れ

土佐藩との盟約が崩れると、薩摩藩は長州藩・広島藩との連携を強め、討幕路線をさらに明確にしていきます。

兵を率いて上洛できなかった土佐藩

大政奉還の了承を得るため土佐に帰国していた後藤象二郎は、9月に入ると再び上洛します。後藤は、藩兵を率いて上洛することを薩摩藩と約束していました。

しかし、山内容堂が出兵を許可しなかったため、後藤は兵を連れてくることができません。通説では、約束を守らなかった土佐藩を西郷が見限り、薩土盟約を破棄したとされています。

一方で、薩土盟約がもともと武力討幕への大義名分を得るための保険だったとすれば、この段階で保険としての役割は終わったとも考えられます。薩摩藩は、土佐藩との協調よりも、長州藩や広島藩との軍事的連携へ重心を移していきます。

広島藩の取り込みと討幕路線の明確化

大久保は8月の段階で、広島藩の実力者である辻将曹(つじしょうそう)との連携を進めていました。広島藩が討幕に加わる見通しを得たことで、西郷は土佐との盟約を破棄し、討幕路線をより明確にします。

薩土盟約を破棄した薩摩藩は、大久保利通と大山格之助を長州に派遣しました。大久保と大山は長州藩主毛利父子に拝謁し、これまでの経緯を説明します。そのうえで、倒幕の挙兵に長州藩が参加するよう要請しました。

大久保と大山は、長州の木戸準一郎(桂小五郎)、広沢兵助らと協議を重ね、9月19日に薩長出兵協定を結びます。さらに広島藩(芸州)も加わり、薩長芸三藩による軍事連携へと発展しました。

この薩長芸の連携によって、武力討幕への動きは一段と加速します。薩土盟約は短期間で破綻しましたが、その過程は、大政奉還と武力討幕が同時に進んでいた幕末政局の複雑さをよく示しています。

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