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示現流(じげんりゅう)と薬丸示顕流(やくまるじげんりゅう)

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識


薩摩の剣術といえば示現流!渾身の一刀を繰り出す示現流は攻撃型の剣であり、防御の技を持たないことが特徴です。

一撃で相手をしとめる示現流の初太刀は凄まじく、その剣を受けようとすれば刀ごと押し込まれ致命傷を負います。

今でこそ、その名を知られるようになった示現流ですが、江戸時代は門外不出とされたため、その剣技は長い間謎となっていました。

示現流は戦国時代島津家に仕えた武士東郷重位(とうごうしげかた)によってあみだされました。

当時の薩摩ではタイ捨流(たいすてりゅう、たいしゃりゅう)が盛んで、重位もタイ捨流を習得していましたが、主君島津義久に従い上洛した京で天真正自顕流(てんしんしょうじけんりゅう)と出会います。

伝承によると、ある日天寧寺(てんねいじ)を訪れた重位は素振りをしている僧を見かけます。その剣に魅せられた重位は僧に教えを乞います。一度は断られた重位ですが、何度も訪ねようやく弟子入りが認められました。

この僧こそが天真正示顕流の使い手であった善吉(ぜんきち)でした。重位は善吉から天真正示顕流を学び印可を得ると薩摩に帰国します。

タイ捨流と天真正示顕流を会得した重位は、薩摩に戻ったあとも日夜稽古にあけくれ腕を磨き、ついに双方の特徴を活かした独自の剣技をあみだしたのです。

40代になった重位は藩主家久の命令でタイ捨流師範東新之丞と御前試合を行い相手の木刀を折る一方的な勝利をおさめます。

不快感をあらわにした家久が木刀で重位に打ち込みますが、扇で家久の手を打ち据えたそうです。

家久は重位の実力を認め剣術師範とすると、重位の流派は示現流と呼ばれ多くの藩士がその剣術を学んだのです。

重位の示現流は東郷家によって代々受け継がれていきますが、その中からいくつかの流派が誕生します。そのひとつが薬丸示顕流(やくまるじげんりゅう)です。

薩摩藩士薬丸兼陳(やくまるけんちん)は、重位から示現流を学び、薬丸家に伝わる野太刀と示現流を合わせた新たな剣技を編み出します。

兼陳の剣術は代々薬丸家に伝承され、のちに薬丸示顕流、野太刀示顕流(のだちじげんりゅう)と呼ばれることになります。

東郷重位の高弟であった兼陳は、自身で流派を起こすことはなかったのですが、江戸時代後期になると薬丸兼武(やくまるかねたけ)が示現流から独立して薬丸示顕流を起こします。

しかし、門弟の帰属をめぐり示現流の東郷家とトラブルになり、最終的に兼武は遠島となってしまうのです。

薬丸示顕流は、兼武の子 兼義(かねよし)と兼成(かねしげ)によって受け継がれ、多くの門弟を獲得しました。

薬丸示顕流は示現流をよりシンプルにしたもので、技の数も少なく理解しやすかったこともあり郷中教育に取り入れられました。そのため、薩摩藩の下級武士の多くが薬丸示顕流を学んだとされています。

寺田屋事件で鎮撫使となった大山綱良(おおやま つなよし)、生麦事件で英国人リチャードソンを斬った奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)、桜田門外の変で井伊直弼の首をとった有村次左衛門(ありむらじざえもん)、人斬り半次郎と呼ばれた桐野利秋(きりの としあき)など、幕末~明治にかけて活躍した薩摩藩の下級武士の多くが薬丸示顕流で心身を鍛えたのです。

≪ 薩摩藩島津家 家臣団の階級(身分)と禄高 | | 幕末江戸の剣術道場 練兵館、玄武館、士学館 ≫

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