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第一次長州征伐 征長総督参謀 西郷吉之助(隆盛)「長人をもって長人を処す」

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元治元年(1864年)7月19日に勃発した禁門の変は長州藩の敗北で終結します。

御所に向け発砲した長州藩は「朝敵(ちょうてき)」とされ、7月24日には朝廷から長州征伐の勅命がくだされました。

朝廷と幕府は長州藩主毛利慶親(もうりよしちか)と世子定広(さだひろ)に対し官位と諱の剥奪を行います。

この措置により藩主慶親は敬親(たかちか)、世子定広は広封(ひろあつ)へと改名を余儀なくされたのです。

勅命を受けた幕府は西国諸藩(21藩)に出兵の準備を命じますが、人選や部隊の編制に手間取り大坂城で軍議が開かれたのは10月22日でした。軍議によって11月18日を総攻撃の日と定めます。

この間、薩摩藩と西郷吉之助(隆盛)はどのような行動をとっていたのでしょうか。

禁門の変で発生した火災は京市中に広まりおよそ八百町(市中の約半分)が焼失する大火災となりました(どんどん焼け)多くの民衆が焼け出されたため、薩摩藩は長州軍から押収した兵糧米を被災者に分配したとされます。

長州征伐の準備が進められる中、西郷は大久保に宛てた手紙の中で「狡猾な長人であればどのようなはかりごとをしてくるかも知れず、武力をもって迫り、降伏を乞うたならば、わずかに領地を与え、東国辺りへ国替えまでしなくては、先々、薩摩に災害をもたらすことになりかねません。」と述べています。

この手紙は9月7日に書かれたものと推測されています。西郷は長州征伐が遅れていることを憂慮し、長州を討ち領地を大幅に削減して国替えでもしないと安心できないと述べていることから、この段階では長州を徹底的に叩くという考えです。

しかし、9月19日付けで大久保に送った手紙には「私が芸州へ乗り込み吉川、徳山に引き離し策を講じれば、長州はかなり混乱しているようなので、暴人の処置を長人につけさせる方法もあるだろうと考えています」と記しています。

同じく、10月8日付けの手紙にも「長人をもって長人を処置させたい」という考えを述べています。

征長軍による討伐から長州自身による問題解決へと大きく方針を転換したことになります。

9月7日から19日までの間に西郷の考えを変える何かがあったと思われますが、この間に西郷に起きた出来事といえば勝海舟(かつかいしゅう)との会見です。

9月11日西郷と吉井友実は越前(福井)藩士とともに勝を訪ねています。薩摩藩と越前藩は将軍家茂が上洛して速やかに長州征伐を実行に移すことを望んでいました。

幕府の軍艦奉行である勝の協力を得るため越前公の書簡を携え勝に面会を求めたのです。

このときどのような話し合いが行われたのか詳細は不明ですが、9月16日付けで大久保へ宛てた手紙には「勝氏に初めて面会しましたが、実に驚きいった人物で、最初は打ちたたくつもりで行ったのですが、とんと頭を下げました。どれほど知略があるやも知れぬ塩梅に見受けました。まずは英雄肌の人で、佐久間象山より仕事の出来では一つ上をいっていると思われます。学問と見識においては佐久間が抜群です。しかし、現時点ではこの勝先生だと、ひどく惚れこんでいます」と記し勝をべた褒めしています。

このとき西郷は大坂湾に四国連合艦隊が来航した場合の対応策を勝に問いますが、それに対し勝は「異人は幕府を軽侮しているので解決できない。明賢の諸侯四、五人が会盟して敵の艦船を打ち破るだけの兵力をもって談判し条約を結べば皇国の恥にはならず、異人も条約に服して国是も定まる」と自論を展開しました。

勝の意見を聞いた西郷は「実に感服した次第です」と感想を述べています。

幕臣の口から幕府を見限るような発言がでたことに西郷は驚愕しました。勝に魅了された西郷が自身の考えを変えたとしても不思議ではありません。

これ以降9月19日付けの手紙に見られるように、徹底討伐から長州存続へと方針を転換します。

禁門の変のあと幕府が迅速に征長を行っていれば歴史は違ったものになっていたかもしれません。

しかし、征長総督に徳川慶勝(とくがわよしかつ)、副総督に松平茂昭(まつだいらもちあき)が決まったのは9月のことであり、10月22日になってようやく征長に出兵する諸藩の代表が大坂城に集まり軍議が開かれたのです。

西郷は事前に長州に探りをいれており恭順派、交戦派の動向をつかんでいました。

徳川慶勝に面会した西郷は長州の内情を説明し恭順派に交戦派(攘夷派)を処分させることが早期解決につながると進言します。

慶勝は御三家尾張藩の前藩主ですが征長に参加した諸大名をまとめるだけの力はありませんでした。

征長を成功させるには軍事力で突出する薩摩藩と、禁門の変でその薩摩藩の指揮を執った西郷の協力が是が非でも必要だったのです。

慶勝は西郷の考えに賛同し、西郷を征長総督参謀に任命します。長州への対応を一任された西郷は支藩の岩国に目を付けます。

長州藩には4つの支藩(岩国藩、長府藩、徳山藩、清末藩)が存在しますが、長州藩と岩国藩は関ケ原の戦いの遺恨があり長年ぎくしゃくした関係が続いていました。

長州は岩国を独立した大名とは認めず歴代の当主を領主として扱っていたのです。

探索で岩国藩主(領主)吉川経幹(きっかわつねまさ)が恭順に傾いているとの情報をつかんでいた西郷は、吉井友実(よしいともざね)、税所篤(さししょあつし)をともない岩国に乗り込みます。

事前交渉において三家老の首と四参謀の処分を求めていた西郷は経幹に面会すると処分を急ぐよう勧告します。

経幹の説得を受けた長州藩では恭順派が三家老を切腹させ四参謀を斬首にしました。これにより11月18日に決定していた征長軍の総攻撃は中止となります。

三家老の首実検が行われ、吉川経幹と長州藩家老 志道安房が征長総督の前で伏罪の姿勢を示すと、征長総督は撤兵条件を長州に提示しました。

1、長州藩主父子の謝罪
2、山口城の破却
3、五卿を長州藩から追放

西郷は小倉に向かい征長副総督松平茂昭に面会すると、これまでの経緯を説明し処分条件の了承を求めました。

さらに、福岡藩士月形洗蔵(つきがたせんぞう)や土佐脱藩浪士中岡慎太郎(なかおかしんたろう)らの協力を得て五卿問題の解決に奔走します。

八月十八日の政変で京から追放された七卿は長州に逃れますが、澤宣嘉(さわのぶよし)は生野の変に参加し、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)は病没していたため、この段階で長州に残っていたのは三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、四条隆謌(しじょうたかうた)、壬生基修(みぶもとなが)の五名でした。

長州の攘夷派にとって五卿は攘夷の象徴であり、朝廷とのつながりを保つうえでも欠かすことができない存在です。

五卿を護衛していた奇兵隊などの諸隊は藩外へ移すことに猛反発したのです。

西郷は吉井友実、税所篤とともに下関に乗り込むと諸隊の説得に当たります。

このとき西郷と高杉晋作(たかすぎしんさく)が会談したとする説がありますが、両者の会談を示す史料などは発見されていないため事実かどうかは不明です。

薩摩藩を薩賊(さつぞく)と呼び憎んでいた諸隊ですが、西郷たちの粘り強い説得に動かされ五卿を福岡藩に移すことに合意したのです。

敵の懐に飛び込み難題を解決するという西郷の手法は、こののちも戊辰戦争や征韓論でみることができます。

長州藩主毛利父子自筆の謝罪文と山口城の破却を確認した征長総督は12月27日に撤兵の命令を下します。

これにより征長軍は解散となり第一次長州征伐は一応の決着をみたのです。

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