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兵庫開港と長州処分をめぐり紛糾する四侯会議

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四候会議(しこうかいぎ)*四侯会議

第二次長州征伐を強行した幕府は10万を超える大軍を動員しながら要地である小倉城を失い劣勢に立たされます。

幕府は「病没した家茂の喪に服する」という理由で朝廷を動かし、長州藩との間で休戦協定を締結しました。

一橋慶喜は徳川宗家を相続し慶応2年(1866年)12月5日には朝廷から将軍宣下を受け15代将軍に就任します。

徳川慶喜は第二次長州征伐失敗の経験を踏まえ軍制改革に着手すると、フランスから軍事顧問団を迎え陸軍の強化につとめます。

また、行政組織の改革にも乗り出し「陸軍」「海軍」「国内事務」「外国事務」「会計」の五局体制を敷き、老中を各局の総裁に任命することで複雑化していた組織を整備していきました。

徳川慶喜による一連の改革(軍事・行財政改革)はおよそ1年かけて行われました(慶応の改革)

幕府の復権に向けた政策を次々と実行に移す徳川慶喜に対して薩長はどのような行動にでたのでしょうか。

薩摩藩でも幕府との対決を見据えた藩政改革が行われていました。その中心にいたのが西郷吉之助(隆盛)です。

慶応2年(1866年)3月に帰国した西郷は10月まで薩摩に滞在して藩政改革を指揮しています。改革に専念していた西郷は第二次長州征伐には直接関与していません。

将軍家茂の死去、第二次長州征伐休戦により京の政局が再び動き出したことで西郷は10月末に上京することになります。上京した西郷は「長州処分」の対応にあたります。

第二次長州征伐の休戦により長州藩に対する処分は棚上げになっていました。

西郷は薩長同盟の約定に従い長州復権のための政治工作を行っていたのですが、12月5日徳川慶喜の将軍就任、12月25日孝明天皇の崩御、1月9日明治天皇の即位で政局は大きく動きます。

明治天皇は14歳と若く父孝明天皇のような発言力を持っていませんでした。

政局の主導権を握ろうと朝廷(公家)、幕府、会津藩、雄藩(薩摩藩、長州藩、土佐藩など)の動きが活発になります。

徳川慶喜の政治力を警戒する西郷は雄藩諸侯による会議(四侯会議)の開催を求めます。

薩摩に帰国した西郷は島津久光に拝謁して四侯会議開催の承認を得ると、土佐と宇和島を訪ね山内容堂と伊達宗城の説得にあたりました。越前の松平慶永(春嶽)への根回しは小松帯刀が担当しました。

慶応3年(1867年)5月四侯が上洛して会議が開催されます。四侯のみで数回会議が行われ、さらに将軍慶喜が加わり話し合いがもたれました。

議題の中心は「兵庫開港」と「長州処分」です。

朝敵となっていた長州藩は入京を許されず満足な政治活動が行えない状況でした。

同盟を結んだ薩摩藩としては長州藩の復権を第一に考え会議に臨んだのです。これに対し幕府(慶喜)は長年の懸案になっていた「兵庫開港」を優先議題にあげます。

兵庫の開港期限が12月に迫っており早急に対応すべきだと主張したのです。

幕府(慶喜)と薩摩藩(久光)の対立が表面化する中、慶永、容堂、宗城の三侯は落としどころをさぐります。

元々この三侯は将軍継嗣問題で一橋慶喜を擁立した一橋派であり、慶喜に対しては遠慮があり強く言えない立場でした。

5月23日に開催された朝議に島津久光と山内容堂は出席せず、兵庫開港に反対する公卿を前に慶喜は熱弁をふるい朝議をリードします。

朝議は長丁場となり夜を徹して行われ、慶喜の気迫に押された公卿たちが開港を認め「兵庫開港」の勅許がおりたのです。

長州処分に関しては「寛大な処置」とすることで決着しますが、具体的な内容は何も決まっておらず実質上の棚上げでした。

四侯会議は空中分解し、徳川慶喜の完全勝利で幕を閉じたのです。

「兵庫開港」とは?
安政5年(1858年)幕府は朝廷の勅許がないままアメリカと日米修好通商条約を結びます。

さらにイギリス、フランス、ロシア、オランダとの間にも同様の条約を締結し、箱館、神奈川、新潟、兵庫、長崎の開港が決定します。

天皇の勅許を得ない条約を違勅とし条約の破棄を求める攘夷派と条約を推進する開国派に分かれ大きな政治問題となります。

攘夷派である孝明天皇はその後も条約の批准(ひじゅん)を拒否します。

幕府は条約を履行するため箱館、神奈川、長崎、新潟を開港しますが、朝廷のおひざ元である兵庫の開港は慶応3年(1867年)12月7日を期限とする先延ばし策で乗り切りました。

文久3年(1863年)5月10日長州藩は関門海峡を通過していたアメリカ商船に砲撃を行うと、23日にはフランス船、26日にはオランダ船にも砲撃を行い攘夷を実行しますが、翌年になると英米仏蘭の艦隊が下関を報復攻撃する事件が起こります。

長州藩は四ヵ国と講和を結び賠償金300万ドルの支払いを受け入れますが、攘夷の実行は幕府の命令に従ったまでだと主張したため賠償金は幕府が払うことになります。

四か国連合艦隊は幕府に圧力をかけるため9隻の軍艦を摂海(大坂湾)に派遣すると、修好通商条約の批准と兵庫開港の前倒しを求めたのです。

幕府は兵庫の開港を独断で決めようとしますが、禁裏御守衛総督 一橋慶喜は天皇の勅許を得ない開港は混乱を招くとして断固反対します。

一橋慶喜は朝議の場で「条約の批准が認められない場合は切腹する」と発言し朝廷を恫喝します。

慶喜の必死の説得により条約の勅許がくだされ修好通商条約は批准されました。

ただし、兵庫の開港は孝明天皇が拒否したため前倒しされることはなく、従来通り慶応3年(1867年)12月7日を期限としたのです。

年代 薩摩藩関連 主要な出来事
慶応2年(1866年)
1月
薩長同盟成立 幕府の長州処分案に勅許がくだる
寺田屋事件 坂本龍馬が指を負傷
3月 坂本龍馬とお龍が鹿児島に到着
4月 薩摩藩が幕府の出兵命令を拒否 広島藩、佐賀藩、宇和島藩 幕府の出兵命令を拒否
6月 島津久光と英国公使パークスが薩摩で会談 第二次長州征伐(四境戦争)開始
7月 薩長同盟の約定に基づき長州救済のため薩摩藩が朝廷工作を行う 14代将軍徳川家茂死去
8月 一橋慶喜が徳川宗家を継ぐ
廷臣二十二卿列参事件
9月 西郷 大目付に昇進 第二次長州征伐停戦協定の締結
12月 徳川慶喜 将軍宣下を受け15代将軍に就任
孝明天皇崩御
慶応3年(1867年)
1月
西郷 四侯会議実現に向け奔走 明治天皇即位
4月 海援隊発足
5月 西郷 土佐藩の乾退助と会談 四侯会議開催
6月 薩土盟約成立
7月 陸援隊発足
9月 薩土盟約破棄
10月 討幕の密勅 大政奉還
薩摩藩江戸藩邸焼き討ち
11月 近江屋事件 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される
12月 王政復古の大号令

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