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島津久光の卒兵上京と寺田屋騒動~文久の幕政改革

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識


寺田屋騒動 薩摩藩精忠組の同士打ち 鎮撫使と急進派*寺田屋騒動 薩摩藩精忠組の同士打ち 鎮撫使と急進派

1858年8月 幕政改革を画策していた島津斉彬は志半ばで病に倒れます。斉彬の遺言で12代藩主には甥の忠徳(ただのり、のちに茂久→忠義に改名)が就任しますが、若年の忠徳に代わり藩の実験を握ったのは隠居していた10代藩主斉興でした。

斉興は幕政改革には否定的であり、保守派の家老島津久宝(しまづひさたか)を重用し藩政の転換をはかります。

藩の実権が保守派に移ったことで、幕府に追われていた西郷吉之助(隆盛)と月照は行き場をなくし錦江湾に入水!

蘇生した西郷は奄美大島に送られることになったのです。

1859年10月斉興が死去すると藩の実権は茂久の父久光に移ります。

兄斉彬の政策を継承した久光は、斉彬の元で主席家老を務めていた島津久徴(しまづひさなが)を再び登用します。

島津久徴は日置島津家の当主で赤山靭負(あかやまゆきえ)や桂久武(かつらひさたけ)の兄です。

この人事により斉彬派が再び勢いを取り戻しますが、卒兵上京をめぐり意見の対立が生じます。

久光の計画は藩兵を率いて京にのぼり御所の護衛をするとともに、朝廷から勅命を賜って幕府に改革を促すというものでした。

これに対し島津久徴は消極的な姿勢を見せます。斉彬と違い藩主の経験がない久光では計画の成功は困難だと考えたのです。

卒兵上京に執念を燃やす久光は喜入久高(きいれひさたか)を首席家老に昇格させると、自分の手足となる若手の登用に踏み切り、小松帯刀(こまつたてわき)、中山尚之助(なかやまなおのすけ)を側役に、大久保一蔵(おおくぼいちぞう)、堀次郎(ほりじろう)を御小納戸役(おこなんどやく)に抜擢したのです。

大久保と堀はともに精忠組の同志であり、二人の他にも岩下方平(いわしたみちひら)、有村俊斎(海江田信義)、吉井仁左衛門(吉井友実)、税所喜三左衛門(税所篤)ら精忠組の主要メンバーを取り立てます。

精忠組を配下に置くことで過激派藩士の突出を防ぎ、出兵計画を前進させる狙いがありました。

久光は堀を江戸に送り幕府への対策に当たらせると、大久保と中山には朝廷工作を命じました。

京に向かった大久保は近衛忠房(このえただふさ)を訪ね朝廷への働きかけを依頼しますが、安政の大獄で父忠煕(ただひろ)が謹慎処分を受けていたこともあり協力を得ることはできませんでした。

薩摩に戻った大久保は久光に事のしだいを報告すると、現状を打開するには奄美大島で潜居している西郷の協力が必要だと進言します。

かつて斉彬の命令で京や江戸で活動していた西郷の人脈を今こそ活かすべきだと久光を説得したのです。

こうして奄美大島から償還された西郷は3年ぶりの帰郷を果たすと、小松帯刀邸で大久保と小松からこれまでの経過の説明を受けたのです。

鶴丸城で久光に拝謁した西郷は卒兵上京計画について自らの考えを進言しました。

西郷は久光が藩主でないこと、無位無官のため江戸城に登城できないこと、他藩との連携が取れていないことを理由に計画の延期を主張したのです。

計画の不備を指摘された久光は不快感を示し、側近の中山尚之助は西郷に遺恨を持つことになります。それでもなお計画を推し進める久光に対し、西郷は痛めていた足の治療を理由に温泉地に引きこもります。

一方、久光の卒兵上京を好機ととらえた攘夷派志士たちは徳川政権に揺さぶりをかけ尊王攘夷の先駆けになることを画策していました。

これを知った小松や大久保は攘夷派からの信望が厚い西郷に事態の鎮静化を依頼し承諾を得ることに成功します。

九州諸藩の動静をさぐりながら東上した西郷、村田新八(むらたしんぱち)は下関に到着すると白石正一郎(しらいししょういちろう)宅に滞在し情報収集につとめます。

このとき白石邸に居た福岡藩脱藩浪士 平野国臣(ひらのくにおみ)や岡藩士小河一敏(おごうかずとし)、精忠組の同志森山新蔵(もりやましんぞう)、長州藩士山田亦助(やまだまたすけ)から上方の情勢を聞いた西郷は驚愕します。

攘夷派浪士は京、大阪に続々集結していて、さらに長州藩では100名を超える志士を上京させる用意があるとの内容でした。

平野や小河も彼らに合流するため大坂を目指していたのです。

事態が切迫していることを知った西郷は「下関で待機しろ」という久光の命令を無視して上方へ向かいます。

このとき村田と森山も同行しています。森山は兵糧米の買い付けのため下関に滞在していたのですが同志である西郷と行動をともにしたのです。

西郷はこのときの心境を木場伝内に宛てた手紙の中で、「志士たちは国を捨て父母や妻子と別れ死を覚悟している。自分も死を覚悟しなければ彼らを救うことはできない」と述べています。

大坂に着いた西郷は長州藩邸を訪れ留守居役の宍戸真澂(ししどますみ)や久坂玄瑞(くさかげんずい)らと会談したとされていますが詳細は不明です。

一方、下関に到着した久光は西郷が大坂に向かったことを知ると烈火のごとく怒ります。

命令に違反した西郷の探索を大久保一蔵(利通)に命じました。

伏見で西郷と面会した大久保は事の詳細を聞き取ると報告のため久光の元に向かいます。

大久保は西郷を擁護しますが、久光は別ルートで西郷に関する情報をつかんでいたのです。その情報を伝えたのは精忠組の同志である海江田信義(有村俊斎)でした。

海江田は大坂に向かう船中で偶然に会った平野国臣から下関 白石邸での様子を聞いていました。

西郷と平野の間でどのような会話がなされたのか詳細は不明ですが、平野は西郷がともに決起すると思ったらしく、それを海江田に話していたのです。

海江田から報告を受けた久光は卒兵上京に反対を唱えていた西郷が攘夷派浪士を扇動したとの疑念を深めます。

大久保と小松は西郷を擁護しますが、西郷を嫌悪していた中山尚之助は厳しい処分を求めました。

このときの状況を大久保はのちに重野安繹(しげのやすつぐ)に語っています。

大久保の話しによると、西郷の切腹は避けられないと感じた大久保はともに刺し違えて死ぬことを提案します。それを聞いた西郷は大久保に後事を託し罪に伏する決心をしたそうです。

捕縛された西郷、村田、森山の三名は船で薩摩の山川港に送られ、処分が決まるまでの一ヵ月間を船中で過ごすことになったのです。

京に到着した久光は朝廷に建白書を提出して幕政改革の勅命を求めました。

朝廷から浪士の取締りを命じられた久光は家臣に対し他藩の攘夷派や脱藩浪士との折衝を禁じますが、血気にはやる有馬新七(ありましんしち)ら精忠組の過激派たちは、脱藩浪士と結託して京都所司代 酒井忠義(さかいただあき)と公武合体派の関白 九条尚忠(くじょうひさただ)
の暗殺を企てていたのです。

久光は伏見の寺田屋に集結していた精忠組過激派を説得するため大久保や海江田を使者に立てますが有馬たちを翻意させることはできませんでした。

薩摩藩の国父 島津久光(しまづひさみつ)*寺田屋に鎮撫使を派遣した島津久光

久光は奈良原喜八郎(ならはらきはちろう)、大山格之助ら腕利きの藩士8名を鎮撫使として寺田屋に派遣します。

寺田屋での騒動は薩摩藩精忠組の同士討ちであり、悲惨な出来事であったことから口をつぐむ者が多く、事件の詳細はよくわかっていません。

通説を紹介しておきます。

寺田屋に到着した奈良原たちが面会を求めると、有馬新七、田中謙助(たなかけんすけ)、橋口壮介(はいぐちそうすけ)、柴山愛次郎(しばやまあいじろう)が応対にあたりました。奈良原は再度説得を試みますが有馬はこれを拒絶します。

田中謙助が「これ以上は無用!」と話し合いを打ち切ると、道島五郎兵衛が「上意!」と叫び田中の頭部を斬りつけたのです。これをきっかけに斬り合いが始まります。

刀が折れた有馬新七は道島五郎兵衛に組みつき「おいごと突け!」と橋口吉之丞(はしぐちきちのじょう)に向かって絶叫します。

頭に血が上った橋口は有馬と道島を串刺しにしたため両名は絶命!

一階では凄惨な死闘が展開されていましたが、多くの者が二階に居たため騒動に気が付きませんでした。

一階に降りてきた森山新五左衛門(もりやましんござえもん)、弟子丸龍助(でしまるりゅうすけ)、橋口伝蔵(はしぐちでんぞう)、西田直五郎(にしだなおごろう)が戦闘に加わりますが、森山は重症を負い、弟子丸、橋口、西田の三名は斬死します。

奈良原喜八郎が刀を捨て二階に上がり同志の説得にあたったため、多くの者が投降して騒動は終結したのです。

投降した者の中には西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)、篠原冬一郎(国幹)、永山弥一郎、三島弥兵衛(通庸)らの姿がありました。

有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、弟子丸龍助、橋口伝蔵、西田直五郎が死亡、最初に斬られた田中謙助は蘇生しますが、重傷を負った森山新五左衛門とともに切腹の処分が下されました。

鎮撫使側で死亡したのは道島五郎兵衛ひとりでその他重症者3名を出したのです。

投降した薩摩藩士は謹慎処分となり他藩の志士たちはそれぞれ所属する藩に引き渡されましたが、引き取り手のない浪士たちは薩摩に送られると斬殺され海中に遺棄されました。

大山綱良(おおやまつなよし)・大山格之助(おおやまかくのすけ)寺田屋騒動鎮撫使*寺田屋鎮撫使のひとり大山綱良(格之助)

寺田屋騒動の詳細は山川港で処分を待つ西郷の元にも届けられました。

寺田屋で重症を負いその後切腹となった森山新五左衛門は森山新蔵の嫡男です。我が子を失った新蔵は処分が言い渡される前に船中で自害して果てます。

やがて二人にも処分が下り西郷は徳之島、村田は喜界島送りとなりました。

朝廷は尊攘過激派を討った島津久光の行動を高く評価し、久光が求めていた幕政改革の勅書を下します。

久光と薩摩藩兵は勅使 大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して江戸に入ると、大原は将軍家茂に勅命を伝えます。

朝廷と外様大名による幕政への介入は前代未聞のことであり、幕閣の中には拒否すべきとの意見もでますが、求心力を失っていた幕府は圧力に屈し一橋慶喜を将軍後見職に、前越前藩主 松平慶永を政事総裁職に任命しました。

さらに幕府は京の治安を回復させるため京都守護職を新たに設け会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)を就任させると、諸藩の負担になっていた参勤交代を緩和(3年に一度)して、大名の妻子の帰国も認めるという制度改革を行います。

また、西洋式の軍制を取り入れ陸軍を新設しました。

これら一連の改革を文久の改革と呼んでいます。

≪ 薩摩藩の奄美大島支配 過酷な黒糖政策 | | 徳之島への流罪 愛加那との再会 ≫

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