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王政復古のクーデターと小御所会議「短刀一本あれば用は足りもうす」

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識

島田墨仙画「王政復古」小御所会議*島田墨仙画「王政復古」小御所会議での論争

薩摩藩主島津茂久と西郷隆盛が藩兵1千を率いて薩摩を出立したのが11月13日、途中三田尻に立ち寄り木戸準一郎(桂小五郎)らと協議を行います。11月20日に大坂に到着し、23日に入京を果たしました。

一方、大久保利通は茂久一行よりも前の11月10日に薩摩を出立しています。12日土佐に入った大久保は後藤象二郎らと協議を行い、山内容堂に卒兵上京を要請すると、11月15日京に到着しています。

大久保が入京した当日に近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、坂本はその日に絶命!中岡も2日後に命を落としました。

入京した西郷と大久保は岩倉具視、後藤象二郎、松平春嶽、福岡藤次(孝弟)らと協議を行い12月8日を王政復古の発布日と定めます。

西郷と大久保の目的は徳川慶喜を新政権から排除することにあります。

政権を返上したとはいえ、徳川宗家は直轄地400万石と旗本知行地300万石を領有する大大名であり、諸藩に比べその力は抜きん出ていました。

徳川慶喜の影響力を排除するためにも徳川家に辞官納地を認めさせ、諸大名と同じレベルにまで落とす必要があったのです。

辞官は官位(位階と官職)の返上、納地は領地の返上を意味します。

徳川慶喜はすでに10月15日に大政奉還を行い政権を返上しています。さらに、10月24日には征夷大将軍も返上していますが、正二位の位階と内大臣の官職はそのままでした。さらに700万石の領地も保有していたのです。

このまま新政権に参加をすれば、徳川慶喜が中心的な役割を担うであろうことは誰の目にもあきらかでした。

西郷、大久保、岩倉は王政復古の大号令発布後にクーデターを起こし、反対勢力である佐幕派の公家や松平容保、松平定敬らを御所から締め出し、徳川家の辞官納地まで一気に推し進める計画を立てます。

12月8日夕刻から朝議が開かれ長州藩毛利父子の官位復旧および長州藩の入京が認められ、八月十八日の政変で処罰された五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧。四条隆謌、壬生基修)や岩倉具視らの復権が承認されます。

朝議は9日の早朝に終わり参加していた公家たちは順次退席しますが、中山忠能(なかやまただやす)、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)、尾張の徳川慶勝、越前の松平慶永、広島の浅野長勲はクーデターを決行すべく御所内に残ります。

事前の打ち合わせ通り、薩摩、土佐、広島、尾張、越前の兵が御所の門を固め慶喜派公家の参内を阻止します。

赦免された岩倉具視が参内して持参した宣言文を読み上げ王政復古の大号令が発布されました。

王政復古により、摂政、関白、征夷大将軍(幕府)が廃され、新たに総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)の三職が新設されます。

従来の摂関体制が廃止されたことで、これまで朝議に出席していた公家の参内が停止されます。この措置により中川宮、摂政二条斉敬ら佐幕派の公家が朝廷から締め出されました。

総裁・・・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)
議定・・・仁和寺宮純仁親王(にんなじのみやよしあきしんのう)山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう)、正親町三条実愛・中御門経之、中山忠能、徳川慶勝、松平慶永、島津茂久、山内容堂、浅野長勲の10名。
参与・・・岩倉具視、大原重徳など5名、さらに5藩からそれぞれ3名ずつ合わせて20名が選ばれました。薩摩藩からは西郷、大久保、岩下が選任されています。

9日夕刻小御所において総裁、議定、参与による最初の会議が開催されます。西郷は大久保と岩下を出席させ、自身は御所の警護を担当しました。

議題の中心は「徳川家の辞官納地」「京都守護職と京都所司代の廃止」ですが、京都守護職と京都所司代については、幕府側からすでに解職した旨の報告がありすぐに廃止が決まります。

意見の対立が生じたのは「徳川家の納地」です。徳川家の所領を勅命で返上させるか、徳川慶喜に自発的に返上させるかで会議は紛糾します。

山内容堂は徳川慶喜がこの場に居ないことを問題視し、慶喜の出席(議定就任)を要求したのです。

徳川慶勝、松平慶永も容堂に同調しますが、岩倉具視と大原重徳は「政治の混乱を招いたのは慶喜の責任」だとして反論しました。

その後も容堂を支持する後藤と岩倉を支持する大久保との間で激しい議論が展開されます。双方が譲らず会議は深夜に及んだためいったん休憩となりました。

このとき岩下が警護役の西郷を呼び出し善後策を相談すると、西郷は「短刀一本あれば用は足りもうす」と言い放ち、決死の覚悟で事にあたることを指示します。

西郷の覚悟を示す有名な言葉ですが、「口先だけでは埒が明かぬ、最後の手段をとっていただきたい」とする史料もあれば、このようなやりとりを記載してない史料も多数存在するため、事実かどうかは不明です。

通説では、この西郷の言葉が岩下から岩倉に伝わり、さらに岩倉 → 浅野 → 辻 → 後藤 → 容堂へと伝達され、その後再開された会議で容堂が発言を控えたことで徳川家の「辞官納地」が決定されたとしています。

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