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長州への再征と薩長同盟 「徳川氏の衰運この時と存じ奉り候」

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識


第一次長州征伐は長州藩が三家老と四参謀を処分したことで総攻撃が中止となり、毛利父子の謝罪と山口城の破却、五卿の大宰府への移動を長州藩が受け入れ実行したことで征長軍の撤兵、解散となりました。

しかし、幕府や一会桑(一橋慶喜、松平容保、松平定敬)、諸大名の一部から処分が軽すぎるとの不満が噴出します。

幕閣は長州に対する処分の決定は、政権を担っている幕府が行うべきだと考え、毛利父子と五卿の江戸送致を朝廷に要請しました。

この動きに対し一会桑は将軍の上洛を要請します。幕府が単独で長州を処分するのではなく、家茂が上洛し孝明天皇と協力することで公武合体を促進させる考えでした。

しかし、幕府は家茂を上洛させずにふたりの老中 阿部正外(あべまさと)と本庄宗秀(ほんじょうむねひで)に兵3千を与え京に送ったのです。

元治2年(1865年)2月5日に上洛した阿部と本庄は「一橋慶喜の帰国」「京都守護職 松平容保と京都所司代 松平定敬の解任」を画策します。

一会桑は元々幕府の出先機関として朝廷対策と治安維持を担っていましたが、しだいに独自の動きをみせるようになり幕府のコントロールがきかなくなっていました。

長州が失速したこのチャンスに一会桑を京から追い出し、幕府が直接支配しようとしたのです。

めまぐるしく変わる情勢の中、薩摩藩はどのような行動をとったのでしょうか。

第一次長州征伐で征長総督参謀という大役を果たした西郷吉之助(隆盛)は、元治2年(1865年)1月15日に帰国すると藩主茂久と国父久光に謁見して征長の報告を済ませます。

茂久は西郷に感状を与えその労をねぎらいました。周囲のすすめもあり1月28日には岩山直温(いわやまなおあつ)の娘イトと再婚をしています。

西郷が一息ついている間に奔走したのが大久保一蔵(利通)です。大久保の直近の課題は参勤交代と長州処分への対応でした。

文久2年(1862年)8月島津久光の要求を受け入れた幕府は参勤交代を緩和(3年に一度)して、大名の妻子の帰国も認めるという制度改革(文久の改革)を行いました。

しかし、元治元年(1864年)9月(禁門の変の翌々月)になると、幕府は参勤交代を元に戻す方針を示したのです。

参勤交代という制度は諸大名が幕府への忠誠を示すために行った軍役のひとつです。その参勤交代を緩和したことで諸大名の幕府離れが加速したのです。

八月十八日の政変禁門の変により長州の勢いが衰えたいまこそ、幕府の権威を取り戻す好機と考えた幕閣が本格的に動き出した結果起こったのが長州処分と参勤交代問題でした。

大久保は幕府が要求している「毛利父子と五卿の江戸送致」を阻止するため朝廷工作に乗り出します。

再婚間もない西郷も大久保を補佐するため九州に向かい五卿に面会すると、九州諸藩に働きかけ根回しを行ったのです。

中川宮や二条関白、近衛忠房(このえただふさ)を動かした大久保は、3月2日に「毛利父子と五卿の江戸送致」中止を命じた「御沙汰書(ごさたしょ)」の獲得に成功します。「御沙汰書」は天皇の意思を示した文書です。

「毛利父子と五卿の江戸送致」を阻止された幕府は4月13日に第二次長州征伐を発令します。

征長総督には尾張藩主徳川茂徳(とくがわもちなが)、副総督には紀州藩主徳川茂承(とくがわもちつぐ)が任命され、4月19日には家茂の江戸進発を5月16日とする通達が出されました。

家茂進発の情報を得た西郷は小松帯刀に宛てた手紙に「徳川は衰退する」と記しています。

「いよいよ発足の様子、自ら禍を迎え候と申すべく、幕威を張るどころの事にては御座あるまじく、これより天下動乱と罷り成り、徳川氏の衰運この時と存じ奉り候」

「長州への再征は自ら禍(わざわい)を招くようなものであり、幕府の威光をしめすどころか、天下は乱れ、徳川氏は衰退していくでしょう」

この頃になると西郷や大久保は公然と幕府を批判するようになります。

権力を取り戻すことに固執している幕府や、朝廷と幕府の間でたびたび主張を変える一橋慶喜に嫌気がさしたのでしょうか。

薩摩藩は第二次長州征伐に参加しないことを表明し、一藩での富国強兵に取り組みながら諸藩との連携を模索していくことになります。

一方、第一次長州征伐で幕府に恭順した長州藩はその後どうなったのでしょうか。

三家老と四参謀を処分した俗論派が藩政を掌握しますが、元治元年(1864年)12月15日高杉晋作が功山寺で挙兵すると、奇兵隊などの諸隊が高杉軍に加わり一大勢力となります。

翌年に行われた太田・絵堂の戦いで俗論派を破った高杉(正義派)は藩論を「武備恭順」にまとめます(表面上は幕府に従いながら裏では軍備をととのえる体制が武備恭順)

幕府との対決姿勢を強める長州藩は大村益次郎が中心となって軍制改革を実行し、西洋式の部隊を編成しました。

このような状況の中、薩摩と長州を結びつけようとする動きがあらわれます。

中心になったのは土佐の中岡慎太郎、坂本龍馬、土方久元(ひじかたひさもと)、福岡藩の月形洗蔵(つきがたせんぞう)、早川養敬(はやかわようけい)らで、彼らは第一次長州征伐とその後に起こった長州処分(毛利父子の江戸送致、五卿の大宰府移転)を解決するため奔走したことから、薩摩藩、長州藩との間に信頼関係を築いていました。

慶応元年(1865年)閏5月 薩摩藩船「胡蝶丸」で薩摩入りした中岡は西郷の元を訪ね、桂小五郎との会談を提案し了承をとりつけます。

坂本と土方も桂を訪ね西郷との会談を了承させたのです。

閏5月21日桂は下関で西郷を待ちますが、西郷は現れず会談は不成立に終わります。

西郷がなぜすっぽかしたのか?「大久保が至急上洛するよう求めた」「桂との会談に藩内から異論がでた」「西郷が乗り気でなかった」などの説がありますが詳細は不明です。

恥をかかされた桂は激怒しますが、中岡と坂本が謝罪し薩摩が長州に武器を融通することで話しをつけます。

幕府との決戦に備え軍備を強化したい長州藩でしたが、幕府の監視が厳しく武器を売ってくれる商人がいませんでした。

そこで薩摩藩名義で購入した武器を長州に横流しする方法を思いついたのです。経済活動を通して両者の距離を縮める作戦でした。

薩摩は武器商人グラバーから小銃数千丁(1万丁とも)を購入すると、長州の井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)がこれを受け取り長州へと運びました。

伊藤俊輔、井上聞多から桂小五郎への手紙 薩摩藩(小松帯刀)の仲介でグラバーから小銃を購入*伊藤俊輔、井上聞多から桂小五郎への手紙(一部抜粋) 薩摩藩(小松帯刀)の仲介でグラバーから小銃を購入したことが記されています。

長州藩毛利父子は薩摩藩島津父子に礼状を送り両藩の関係は改善に向かいます。

両藩の会談実現に向け奔走する中岡と坂本!12月になり西郷が黒田了介(清隆)を下関に派遣したことで事態は大きく動きます。

慶応2年(1866年)1月8日 黒田の説得を受け入れた桂小五郎が品川弥二郎らをともない上洛します。

薩摩藩邸に入った桂一行を薩摩藩重役が出迎えました(西郷と桂は初対面)

薩摩藩は西郷吉之助、小松帯刀、大久保利通、桂久武、吉井友実などの面々が対応にあたり丁重にもてなしますが、両藩ともに同盟を切り出さずいたずらに時間だけが過ぎます。

1月20日になり桂が帰国の準備をしているところに坂本龍馬が到着します。

未だに同盟が締結されていないことに驚いた坂本が西郷を説得したことでようやく話しが前に進み、21日小松邸での会談で両藩が合意して同盟が締結されたのです(同盟の締結は18日説、22日説もあります)

薩長同盟六か条
一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事
一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事
一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事
一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事
一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事


一、長州藩と幕府が戦争になったときは、薩摩藩がすぐに二千余の兵を差し登らせ、在京の兵と合わせて、大坂へも千程の兵を差し向け、京坂を固めること
一、長州藩が勝利をおさめそうなときは、長州の復権を朝廷に進言して尽力すること
一、万一長州藩が敗色濃厚になっても半年や一年で壊滅するようなことはないので、その間も薩摩藩は長州藩のために必ず尽力すること
一、幕府軍が兵を引いたら薩摩藩はすぐに朝廷に進言して長州藩の冤罪が免じられるよう尽力すること
一、兵力をもって一橋、会津、桑名などが朝廷を擁し、正義をこばみ薩摩藩の周旋を遮るときは、決戦に及ぶ他ないこと
一、長州藩の冤罪が晴らされたときは双方が誠意をもって協力し皇国のため、皇威回復のために誠心誠意尽力すること

同盟は口約束であったため心配した桂が翌日になり文書化します。
この書状を坂本に送り内容の確認を求めると、坂本は相違ないことを朱で裏書きして返送しました。

薩長同盟 坂本龍馬裏書*薩長同盟 坂本龍馬裏書

年代 薩摩藩関連 主要な出来事
元治元年(1864年)
7月
禁門の変
8月 坂本龍馬が西郷吉之助(隆盛)を訪ねる 初対面 四か国連合艦隊 下関砲撃事件
9月 西郷が勝海舟を訪ねる 初対面 参勤交代を文久の改革以前に戻すことを布告
10月 西郷 御側役に昇進 徳川慶勝 征長総督を受諾
西郷 征長総督参謀に任命される 征長軍 大坂城で軍議
11月 西郷、吉井、税所岩国入り 吉川経幹と交渉 長州藩三家老切腹、四参謀斬首
征長軍の総攻撃が中止 勝海舟軍艦奉行を罷免される
12月 中岡慎太郎が西郷を訪ねる 初対面 中岡慎太郎小倉入り
西郷、吉井、税所 下関入り 諸隊を説得 高杉晋作 功山寺挙兵
征長軍解散 第一次長州征伐終結
元治2年(1865年)
1月
西郷薩摩に帰国 太田・絵堂の戦い
西郷がイトと再婚
2月 大久保と小松 長州問題、参勤交代問題で朝廷工作 長州藩 正義派が俗論派をくだし藩政を掌握
西郷 九州で長州処分の解決に奔走 老中阿部正外と本庄宗秀が上洛
3月 長州処分 毛利父子の江戸送致中止の御沙汰書 長州藩「武備恭順」に藩論を転換
慶応元年(1865年)
4月
元治から慶応に改元
幕府が第二次長州征伐を発令
5月 家茂江戸を進発
閏5月 西郷 大番頭に昇進 武市半平太切腹
西郷と桂小五郎の下関会談 西郷がすっぽかす 家茂3度目の上洛
9月 第二次長州征伐の勅許がくだる
10月 福岡藩佐幕派が攘夷派を弾圧 月形洗蔵斬首(乙丑の変)
12月 西郷が黒田了介(清隆)を長州へ派遣
慶応2年(1866年)
1月
薩長同盟成立 幕府の長州処分案に勅許がくだる
寺田屋事件 坂本龍馬が指を負傷
3月 坂本龍馬とお龍が鹿児島に到着
6月 第二次長州征伐(四境戦争)開始

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