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西郷吉之助(隆盛)はなぜ沖永良部島から召喚されたのか? 文久2年(1862年)~元治元年(1864年)の政局

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識


文久2年(1862年)7月~元治元年(1864年)2月 西郷吉之助(隆盛)は流罪となり徳之島と沖永良部島に流されていました。

西郷が島に居たおよそ1年半の間に世の中は大きく動きます!

西郷が島に流されていた期間とその前後に起こった出来事のうち主要なものを年表にしてみました。

年代 薩摩藩関連 主要な出来事
文久2年(1862年)
1月
  坂下門外の変
2月 西郷吉之助(隆盛)奄美大島から戻り藩政に復帰 将軍家茂と和宮の婚礼
3月 島津久光上洛のため薩摩を出発  
4月 西郷吉之助(隆盛)、村田新八、森山新蔵が命令違反で捕縛される 吉田東洋暗殺
  島津久光京都に到着  
  寺田屋騒動  
5月 島津久光京を出発  
6月 西郷吉之助(隆盛)と村田新八に遠島が命ぜられる  
  島津久光江戸到着  
7月 西郷吉之助(隆盛)徳之島到着 長州藩「破約攘夷」へ藩論を転換
    京で天誅が始まる
8月 島津久光江戸出発 生麦事件 土佐藩主山内豊範と武市半平太が入京
  愛加那が菊次郎と菊草をともない徳之島を訪れる 長州藩、土佐藩による朝廷工作 攘夷派が優勢に
閏8月 西郷吉之助(隆盛)沖永良部島に到着  
  島津久光入京 朝廷に幕政改革の成果を報告  
9月 島津久光 薩摩に帰国  
11月   勅使 三条実美と姉小路公知が江戸に到着 幕府に攘夷を迫る
12月 大久保一蔵(利通)入京 将軍家茂の上洛延期を工作 英国公使館焼き討ち
    京都守護職 松平容保が藩兵を率いて入京
文久3年(1863年)
1月
大久保一蔵(利通)江戸到着 将軍家茂の上洛延期を工作  
2月   浪士組結成
3月 島津久光入京 将軍家茂上洛 入京
4月 島津久光薩摩に帰国 家茂参内 5月10日を攘夷期日と奏上
5月   長州藩攘夷実行 下関砲撃事件
  姉小路公知暗殺の嫌疑で薩摩藩の勢力が京から一掃される 姉小路公知暗殺(朔平門外の変)
6月   下関事件の報復攻撃 アメリカとフランスの艦船が下関を砲撃
7月 薩英戦争  
8月   大和行幸の詔が発せられる
    天誅組の変
  薩摩藩と会津藩が手を結び長州藩を京から追放 八月十八日の政変 七卿落ち
10月   生野の変
12月   一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、松平容保、伊達宗城が参預に 任命される
文久4年(1864年)
1月
島津久光 官位を賜り参預に任命される  
元治1年(1864年)
2月
西郷吉之助(隆盛)沖永良部島から召喚 藩政に復帰 文久から元治に改元
3月 西郷吉之助(隆盛)軍賦役に任命される 参預会議分裂
6月   池田屋事件
7月 禁門の変で長州藩を撃退 西郷は足を負傷 禁門の変


強権的な政治で幕府の権力を維持しようとした井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されます。幕政のトップである大老が白昼に暗殺されたことで幕府の威信は大幅に低下しました。

幕閣は孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の正室に迎えることで、幕府と朝廷の融和をはかり難局を乗り切ろうとします。

和宮降嫁をすすめた老中安藤信正が襲撃され負傷する事件(坂下門外の変)が起きますが、文久2年(1862年)2月家茂と和宮の婚礼は無事にとりおこなわれました。

以後、幕府と朝廷の融和をはかる公武合体派と、攘夷親政を目指す攘夷派との間で激しい権力争いが展開されることになります。

幕府の権威が低下したことで政治の中心は江戸から京に移ります。

文久2年(1862年)4月 島津久光が藩兵を率いて上洛しますが、この上洛が京の政局を大きく動かしました。

島津久光の真意は公武合体であり、朝廷を動かし幕府に改革を迫ることが上洛の目的だったのですが、攘夷実行だと勘違いした攘夷過激派の動きが活発化し、京都所司代や関白の暗殺まで計画されるにいたります。

朝廷から攘夷過激派の取り締まりを命じられた島津久光は寺田屋に鎮撫使を送り藩内の攘夷派を上意討ちします(寺田屋騒動

この功績で朝廷から勅書を賜った島津久光は江戸に下向して幕府に改革を要求しました。朝廷の威光と薩摩藩の軍事力に屈した幕府は改革に着手します。

江戸に3か月間滞在した島津久光は帰国の途につきますが、その道中で行列を乱した英国人四人を殺傷する事件(生麦事件)を起こします。

閏8月6日京へ到着した久光は参内して幕政改革の成果を報告をしますが、久光が京を留守にしている間に朝廷内の勢力は激変していました。

長州藩が「航海遠略策」を破棄して「破約攘夷」へと藩論を転換したことで、攘夷派が猛烈な勢いで巻き返しをはかったのです。

孝明天皇の周囲は攘夷派公家で固められ公武合体派の久光は何もすることができず失意のうちに薩摩に帰国します。

久光一行が京を去ると入れ替わるように土佐藩主山内豊範を奉じた武市半平太と土佐勤皇党が入京しました。

吉田東洋を暗殺して藩論を攘夷にまとめた武市は上洛すると長州藩と連携して朝廷工作を行い、幕府に攘夷を迫るべく勅使 三条実美と姉小路公知の江戸派遣を実現します。

勅命に逆らうことができない幕府は将軍家茂を上洛させることで回答を引き延ばしたのです。家茂の上洛をめぐり公武合体派と攘夷派の間で激しい駆け引きが展開されます。

島津久光は家茂の上洛延期に動きます。家茂が上洛すれば攘夷実行の期日を迫られるのは確実であり、日本中が攘夷一色にそまることを憂慮したのです。

久光の命を受けた大久保一蔵(利通)は京都と江戸で上洛延期の政治活動を行いますが、これは実らす翌年3月に上洛が決定します。

攘夷派の勢力が優勢になった京では天誅が横行していました。治安の乱れを放置できない幕府は京都守護職を新設して会津藩をその任につかせます。

会津藩主松平容保は藩兵1千人を伴い文久2年(1862年)12月に上洛しました。

文久3年(1863年)3月上洛を果たした家茂は参内して5月10日を攘夷期日と奏上します。

孝明天皇は攘夷派ですが異人や外国の艦船を攻撃するような過激な行動には否定的でした。

条約の破棄に向けた交渉開始を幕府に求めていたとされていますが、暴走した長州藩は5月10日の期日が到来すると、下関海峡を通過する外国船を砲撃したのです。

さらに、攘夷派の中でも急進派の真木和泉(まきいずみ)、三条実美らは、天皇親政を画策し孝明天皇の大和行幸を強行する構えを見せます。

孝明天皇は親政(天皇が政治を行うこと)を望んではおらず、あくまで政治は幕府に任せるという考えでした。

天皇の意をくんだ公武合体派の中川宮(なかがわのみや)と関白 二条斉敬(にじょうなりゆき)は、薩摩藩、会津藩と連携して長州藩と攘夷急進派の公家7人を京から追放したのです(八月十八日の政変)

長州を追い出した薩摩藩はこの機を逃すまいと島津久光が上洛して雄藩連合政権の構築に乗り出します。

文久4年(1864年)正月将軍家茂が再び上洛すると、朝廷(中川宮、二条斉敬)と幕府(松平直克、水野忠精)、参預(一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、松平容保、伊達宗城、島津久光)による会議が開催されました(参預会議)

合議によって政策を決定する仕組みがようやくできあがったのですが、長州藩の処分や横浜港の閉鎖をめぐり幕府と参預の間で対立が生じます。

調整役を担っていた一橋慶喜は薩摩藩の発言力がこれ以上大きくなることを警戒して幕府寄りの立場を鮮明にします。態度を豹変した一橋慶喜に対し島津久光は距離を置くようになり参預会議は分裂状態となりました。

このように参預会議が機能不全に陥った状況の中で西郷の召喚が決定したのです。

西郷赦免の声は文久3年(1863年)7月の薩英戦争前から高まっていましたが、島津久光が頑として認めなかったため実現していませんでした。

八月十八日の政変後大きく動き出した政局の中で再び西郷待望論が高まります。

ドラマや小説では小松帯刀と大久保一蔵(利通)が久光に進言して西郷の赦免が実現したことになっていますが、西郷と親しい黒田清綱(くろだきよつな)や福山精蔵(健偉)、寺田屋騒動に加わっていた柴山竜五郎(しばやまりゅうごろう)、三島源兵衛(通庸)ら若手の藩士たちが西郷赦免活動を展開し、久光の側近である高崎左太郎(正風)と高崎五六(たかさきごろく)が久光に進言したことで西郷の召喚が決まったとする説もあります。

薩英戦争で活躍した精忠組や若手攘夷派藩士たちの声におされる形で久光の側近たちが動いたものと思われます。家臣たちに迫られた久光が渋々西郷の召喚を認めたのでしょう。

このとき久光は「左右みな(西郷を)賢なりと言うか。しからば即ち愚昧の久光独りこれを遮るは公論にあらず。太守公(藩主忠義)の裁決を請うべし」と言い放つと、あまりの悔しさにくわえていたキセルの吸い口を噛みしめ歯形がついたという話しが伝わっています。

実話かどうか不明ですが西郷を嫌っていた久光の心情をよくあらわしています。

実際のところ、久光が目指した雄藩連合政権は瓦解寸前であり、何としてでも京の政局を主導したい薩摩にとって公武合体派、攘夷派ともに人脈を持つ西郷の復帰は現実的な選択だったのです。

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