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武市半平太(瑞山)と土佐勤王党

武市半平太(瑞山)肖像画

武市半平太(瑞山)は、1829年生まれで龍馬より6歳年上になります。坂本家とは遠縁にあたるため、半平太と龍馬は親しい間柄であだ名で呼び合うこともあったそうです。


武市家は下士の中でも白札と呼ばれる上位の階級で、上士に準じる扱いを受けた家柄でした。学問、剣術ともに優秀で、一刀流の道場を開き多くの門弟を集めました。この剣術道場が後の土佐勤王党の母体となります。


龍馬と同じ時期に江戸の鏡心明智流で剣術修行を行い士学館の塾頭にまでなっています。武市半平太は尊王の思想が強く、公武合体に傾く土佐藩を尊皇攘夷にするため奔走します。


1861年土佐勤王党を結成し、公武合体論者である参政「吉田東洋」を暗殺し藩の実権を掌握して藩論を尊皇攘夷にまとめていきます。尊皇攘夷のためなら反対する者は力で退ける過激な面を持ち合わせ、いくつかの暗殺事件に関与していきます。


八月十八日の政変で尊皇攘夷派の中心であった長州藩が力を失うと、土佐藩でも公武合体派が巻き返しをはかり、山内容堂の命令で勤王党が弾圧され武市半平太も投獄されます。


投獄された勤王党の志士たちは吉田東洋暗殺の嫌疑で厳しい拷問を受けましたが、半平太は上士身分であったため拷問されることはありませんでした。このとき勤王党を拷問したのが後藤象二郎であり土佐藩の実権を握っていきます。


このとき、拷問を受けていた岡田以蔵が少しずつ自白を始めていたため、毒殺が計画されました。結局、実行はされませんでしたが、このことを知った以蔵は裏切られたとの思いからすべてを自白してしまいます。


半平太の事件への関与が明らかになりましたが、半平太は吉田東洋暗殺は否認し続けたため「君主に対する不敬行為」という罪状で切腹を命じられました。


半平太は腹を三文字に切って切腹したそうです。三文字ということは腹を三回切るのですから壮絶な最後ですよね。暗殺というダークな部分もある半平太ですが、最後は武士としての意地を通しました。