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戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と水戸藩への弾圧

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戊午の密勅(ぼごのみっちょく)*戊午の密勅(ぼごのみっちょく)

1853年ペリー率いる東インド艦隊が浦賀に来航し、アメリカ合衆国大統領の国書を幕府に手渡します。

翌年、再び来航したペリーに対し、幕府は日米和親条約を結び下田と箱館を開港すると、1858年には天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結したのです。

幕閣の専横に憤激した徳川斉昭(とくがわなりあき)、水戸藩主 徳川慶篤(とくがわよしあつ)、尾張藩主 徳川慶勝(とくがわよしかつ)、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、福井藩主 松平慶永(まつだいらよしなが)らが登城し幕閣を詰問します。

これに対し井伊大老らは、登城日ではないのに強引に登城したことを理由に一橋派に処分を科したのです。

徳川斉昭は謹慎、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永は隠居謹慎、一橋慶喜は登城禁止となります。

藩主の慶篤と前藩主の斉昭を処分された水戸藩では、幕府に対する不満が高まり、藩内の尊王攘夷派が勢いづきます。

一方、朝廷でも幕府の独断に不満が噴出します。孝明天皇自身が条約の締結には反対であり、幕府に対し慎重に行動するよう求めていたからです。

条約締結を受けて攘夷派の公家たちが巻き返しをはかります。

安政5年8月8日(1858年9月14日)朝廷は水戸藩に勅書(ちょくしょ)を下します。

勅書は天皇の命令を伝える文書ですが、この勅書は幕府寄りであった関白九条尚忠(くじょうひさただ)を介さずに下賜されました。

正式な手続きを経ない勅書であり、安政5年の干支が戊午(ぼご、つちのえうま)であったことから「戊午の密勅」と呼ばれました。

水戸藩の京都留守居役 鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)は、京都留守居役助であった息子の幸吉(こうきち)に密勅を託し、密勅の写しは日下部伊三次(くさかべいそうじ)に預けられました。

日下部伊三次は水戸出身の薩摩藩士で、鵜飼とともに京で尊攘活動を展開していた人物です。

鵜飼幸吉は東海道を、日下部伊三次と息子の裕之進(ゆうのしん)は中山道を進み、密勅は江戸の水戸藩邸へと届けられたのです。

密勅の内容は
1、違勅調印と一橋派処分に対する叱責
2、御三家、御三卿、諸藩の幕政参加と攘夷推進
3、諸藩への回覧(密勅の内容を諸藩に伝達する)

密勅は水戸藩家老の安島帯刀(あじまたてわき)から藩主徳川慶篤の手に渡りました。朝廷は幕府にも勅書を下賜しますが、それは水戸藩への密勅から二日経過したあとでした。

将軍の家臣である水戸藩に勅書が直接下されたことは、幕府を軽視する行為であり、朝廷の政治介入につながる重大事でした。

幕府は水戸藩に対し諸藩への回覧を禁じ、さらに密勅の返還を要求したのです。

水戸藩では返還やむなしとする鎮派と、返還をこばむ激派との間で激しい議論が展開され両派は対立します。

大老井伊直弼は、朝廷や諸藩の政治介入を阻止すべく、攘夷派への弾圧に乗り出しました。

特に戊午の密勅に関与した水戸藩への弾圧は凄まじく、安島帯刀、鵜飼吉左衛門 幸吉父子、茅根伊予之介(ちのねいよのすけ)が死罪となり、日下部伊三次は厳しい拷問を受け獄中死!息子の裕之進も翌年に獄中死します。

さらに水戸藩勘定奉行 鮎沢伊太夫(あゆさわいだゆう)には遠島の処分が下ります。鮎沢伊太夫は桜田門外の変の中心人物のひとり高橋多一郎(たかはしたいちろう)の弟です。

この他にも長州藩士 吉田松陰(よしだしょういん)、福井藩士 橋本左内(はしもとさない)、儒学者 頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、攘夷派志士 飯泉喜内(いいいずみきない)が処刑され、幕政改革を唱える大名や尊攘派の公家、志士たちに蟄居、謹慎、遠島などの処分が言い渡されたのです。

安政の大獄で処分された者は100名以上にのぼるとされ、弾圧を強行した井伊直弼は尊攘派の志士から恨みをかうことになり、桜田門外の変で命を落とすことになります。

≪ 水戸学(みとがく)と尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう) | | 錦江湾に入水した西郷吉之助と月照 辞世の句 ≫

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