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討幕の密勅と大政奉還

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識

邨田丹陵画「大政奉還図」*邨田丹陵画「大政奉還図」

辻将曹(つじしょうそう)を説得して広島藩を取り込んだ西郷と大久保は、薩土盟約を破棄して討幕の動きを加速させます。

一方、盟約を破棄された土佐藩では、藩論となった「大政奉還」を実現すべく朝廷への根回しを行いながら、薩長の討幕挙兵を牽制します。

後藤象二郎は辻将曹に働きかけ「大政奉還」への協力を取り付けると、薩摩藩の討幕慎重派に接触して分断をはかっています。

薩摩藩在京指導部の中にも討幕挙兵に対し慎重論がでます。その要因となったのが国元での出兵反対勢力の増加です。

出兵が現実味を帯びてくると反対派の声が日増しに大きくなり、藩内の動揺を抑えるため島津久光が薩摩に帰国する事態となりました。

四侯会議分裂後も京に留まっていた島津久光は、自身の体調不良もあり9月15日に帰国の途につきます。

かわりに国元から久光の四男島津豊後が1千の兵を率いて上洛しました。

帰国した島津久光は討幕挙兵に反対する家臣に対し、「出兵は禁裏の守護を目的とするもので、討幕のためではない」と説明し事態の鎮静化につとめます。

国元での動揺は在京薩摩藩指導部へも影響を及ぼし、小松帯刀が挙兵に消極的な態度を見せるようになります。

土佐側の史料には「高崎某の説得によって島津豊後と小松帯刀が大政奉還に傾いた」と記されています。

高崎某とは京都留守居役高崎左太郎(正風)か高崎猪太郎(五六)のどちらか、もしくは両者だと考えられています。

高崎左太郎はお由良騒動で切腹を命じられた船奉行 高崎五郎右衛門(たかさきごろうえもん)の嫡男です。

お由良騒動は別名「高崎崩れ」とも呼ばれますが、高崎とは高崎五郎右衛門のことをさします。

父に連座して島流しとなった佐太郎ですが、赦免されると京に上り会津藩との提携に奔走します。

八月十八日の政変を成功に導いた功績により京都留守居役に就任しました。

高崎猪太郎は島津久光の命を受け京、大坂で活動していました。詳細な活動内容は不明ですが、明治になると東京府知事に任命されていることから、それなりの地位に居た人物と思われます。

左太郎と猪太郎は沖永良部島に流されていた西郷の赦免活動を後押しした人物として史料にその名が登場していることから、西郷の活動には理解を示していたと思われます。

その高崎が反対していることからも、討幕挙兵に対する疑念や不信感が薩摩藩内に漂っていたことが推測できます。

藩論が割れている状況下での挙兵に不安を感じた小松帯刀が大政奉還に傾いたとしても何ら不思議はありません。

土佐藩の後藤象二郎、福岡藤次(孝弟)は在京薩摩藩指導部に対し「大政奉還建白書」の草案を示し同意を求めます。

薩摩藩は建白書に同意しますが、その裏では岩倉具視らを動かし討幕の準備を着々と進めていました。

10月3日土佐藩は老中板倉勝静(いたくらかつきよ)に「大政奉還建白書」を提出します。

この動きに対し西郷と大久保は辻将曹を説得して再び広島藩を取り込むと、10月8日に「薩長芸出兵協定」を締結しました。

二転三転した広島藩ですが、薩摩と同じように藩内には「討幕派」「倒幕派」「佐幕派」が混在していました。

判断を誤れば藩の存続が危うくなるだけに、挙兵に対しては慎重な態度で臨んでいたのです。

西郷、大久保、小松の三者は、討幕派の公家 中山忠能(なかやまただやす)、中御門経之(なかみかどつねゆき)、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)らに働きかけ「討幕の密勅」を下すよう要請しました。

天皇の命令が「勅命」で秘密の命令が「密勅」です。「討幕の密勅」とは、天皇が発した幕府(徳川慶喜)討伐の秘密命令ということになります。

10月13日岩倉具視から大久保利通に「討幕の密勅」が、広沢兵助には「藩主官位復旧の宣旨」がそれぞれ下され、翌14日には長州藩にも「討幕の密勅」が降されました。

長州藩は禁門の変で朝敵とされ毛利父子は官位を剥奪されていました。官位のない者に勅命は下せないので、官位を復旧させてから勅命を与えたのです。

討幕の密勅*討幕の密勅

徳川慶喜は代々の権威を笠に着てその強大な武力で多くの人民を殺害し、天皇の命令を無視してきた。先帝(孝明天皇)が下した命令を故意に曲げて解釈し人民を苦しめた賊臣徳川慶喜を殺戮し、人民の平和を取り戻すことが私の願いである。

「討幕の密勅」により幕府を討つ大義名分を得た西郷と大久保ですが、またしても徳川慶喜にしてやられます。

慶喜は土佐藩の建白書を受け入れ朝廷に政権を返上する決断を下したのです。

10月3日に土佐藩から提出された「大政奉還建白書」を受け取った徳川慶喜は、老中板倉勝静、若年寄格永井尚志(ながいなおむね)と相談の上政権返上を決めます。

12日京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬らと会議を行い、13日には在京40藩の重臣を集め政権返上についての意見を求めました。

小松帯刀、後藤象二郎、辻将曹らは「未曾有のご英断まことに感服つかまつりました」と述べ慶喜の決断を称賛します。

14日徳川慶喜は諸大名の重臣を前に「大政奉還」を正式に発表し、朝廷に上奏します。

小松と後藤は「大政奉還」に反対していた摂政二条斉敬(にじょうなりゆき)の説得役を担い、翌15日朝廷が「大政奉還」を受理したことで、260年余続いた徳川政権は終焉を迎えたのです。

このように小松帯刀は後藤象二郎とともに「大政奉還」の実現に奔走しています。

小松は薩摩藩家老として、武力討幕へと突出する在京指導部と、挙兵に反対する本国との間に入り対立が激化しないよう、うまくバランスをとっていたと考えられます。

西郷と大久保にとって慶喜の政権返上は想定外のことであり、「討幕の密勅」を大義名分とする挙兵計画は修正を余儀なくされました。

西郷、大久保、小松の三者は善後策を講じるため薩摩への帰国を決断します。

10月17日討幕の密勅を携えた西郷、大久保、小松は、同じく密勅を降された長州藩の広沢、品川とともに京を発つと、途中山口に立ち寄り毛利父子に拝謁します。

26日薩摩に戻った西郷らは「討幕の密勅」を藩主父子に提出すると、翌27日には重役が集まり会議が開かれました。

この席で藩主茂久の出兵上洛が決定されました。

現在では、「討幕の密勅」は正式な手続きを経ていない偽勅だとされています。

しかし、詔勅(密勅)が本物か偽物かを見分けることは容易ではなく、それを受け取った者の受け止め方次第という面があります。

「討幕の密勅」は藩主父子宛てのものであり、受け取った久光と茂久が勅命を受け入れれば家臣は反対することができません。

島津図書ら藩内の挙兵反対派は無条件で従わざるを得なかったと思われます。

勅命に疑いを持ったとしてもそれを口にすることは不敬であり、偽勅だと証明することも不可能でした。

のちに鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」も同じです。

そこに存在していることが正義であり、手に入れた時点で圧倒的に有利な状況を作り出すことができたのです。

茂久の出兵上洛は決まったものの、久光父子が西郷や大久保が目指す討幕挙兵にもろ手を挙げて賛成した訳ではありません。

文久の改革以来、朝廷と幕府、雄藩による合議制を模索していた久光にとって、大政奉還後に発足される新政権は自身が望んだ理想の体制ともいえます。

新政権がうまく機能すればリスクを伴う討幕は必要ないのですが、徳川慶喜の政治手腕を警戒していた久光は政権返上後の体制を見極めたいとの思惑があり、新政権のキャスティングボードを握るための武力を必要としたのです。

本来であれば久光が兵を率いて上洛すべきところですが、脚気による体調不良のため動くことができませんでした。

同じように小松帯刀も足の痛みが悪化したため国元に残り治療に専念することになります。

茂久の上洛には西郷が従い、大久保は土佐に立ち寄り後藤象二郎らと会談したのち入京しました。

年代 薩摩藩関連 主要な出来事
慶応3年(1867年)
4月
海援隊発足
5月 西郷 土佐藩の乾退助と会談 四侯会議開催
6月 坂本龍馬が後藤象二郎に「船中八策」を示す
薩土盟約成立 土佐藩の藩論が「大政奉還」に決まる
8月 大久保と辻将曹が会談
9月 薩土盟約破棄
島津備後と藩兵1千が入京
薩長出兵協定締結
島津久光が薩摩に到着
10月 薩長芸出兵協定を締結 土佐藩が老中板倉勝静に「大政奉還建白書」を提出
薩摩藩に「討幕の密勅」が下る 長州藩に「藩主官位復旧の宣旨」が下る
長州藩に「討幕の密勅」が下る
徳川慶喜「大政奉還」を朝廷に上奏
西郷、大久保、小松の三者が京を発つ 朝廷が「大政奉還」を受理
西郷、大久保、小松が薩摩に帰国
藩主茂久の出兵上洛が決定

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