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西南戦争で戦死した西郷小兵衛(こへえ)妻松子の証言

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西郷小兵衛(さいごうこへえ)*西郷小兵衛(さいごうこへえ)

西郷隆盛の末弟が小兵衛です。小兵衛は1847年生まれなので隆盛より19歳下になります。幼名は彦吉。

西郷小兵衛については史料が少ないため断片的な情報しか残っていません。

熊本藩士 佐々友房(さっさともふさ)は西郷小兵衛の容姿を「身長が高く容姿が秀でていて行動は慎重、寡黙で西郷の弟に背かず」と日記に記しています。

佐々友房は池辺吉十郎(いけべきちじゅうろう)が率いた熊本隊の小隊長として薩軍に加わり西南戦争を戦った経緯から、実際に西郷小兵衛と面識があったと思われます。

佐々は吉次峠の戦いで重傷を負い病院に入院後監獄に収監されます。余談ですが、あさま山荘事件で有名な佐々淳行氏は佐々友房の孫にあたるそうです。

西郷小兵衛は眼が大きく体格も立派で隆盛によく似ていたといわれています。

戊辰戦争では小兵衛を含む四兄弟全員が出陣し、次男の吉二郎が戦死を遂げます。西南戦争が起こると小兵衛は隆盛に従い政府軍と戦いました。

小兵衛は篠原国幹が指揮する一番大隊第一小隊長となり熊本城に向かい進軍します。

熊本城周辺で激戦が展開される中、高瀬の戦いで陣頭指揮をとっていた小兵衛が左胸に敵の銃弾を受けます。

薩軍は焼け残っていた民家(橋本家)の雨戸を一枚もらい小兵衛を乗せると、隆盛が居る北岡神社に運びますが、重傷であったため途中で絶命しました。享年31。

小兵衛の姿を見た隆盛は言葉を失くし何も語らなかったそうです。この日の戦闘では隆盛の長男菊次郎も足を負傷しています。

田原坂、吉地峠を失った西郷軍は鹿児島まで退却し城山で最期を迎えました。

戦後、小兵衛の妻松子から橋本家に礼状が届けられ、6通の手紙が玉名市の歴史博物館に収蔵されています(2018年7月16日まで開催されていた「錦絵の中の西郷展」で松子の手紙が展示されました)

小兵衛の妻松子は有馬糺右衛門の娘で16歳のときに小兵衛に嫁ぎました。松子の本名はマスですが、吉二郎の最初の妻が同じ名前だったので松子と改名しました。

小兵衛の父吉兵衛の弟彦八が大山家に養子に入り大山綱昌を名乗ります。大山綱昌の子が国子で国子の娘が松子です。

西郷小兵衛と松子系図*西郷小兵衛系図

小兵衛と松子の間には長男の幸吉が誕生しています。

松子は晩年になると鹿児島新聞などの取材に応じ西南戦争当時の様子を語っています。

明治6年の政変で下野した隆盛は鹿児島に帰国すると自宅で晴耕雨読の生活を送り、愛犬を連れてよく狩猟に出かけていたそうです。玄米と芋を混ぜたものを焚き愛犬に与えていたと話しています。

松子の夫小兵衛は洋行する予定があり服や靴を揃えていたそうですが、隆盛が下野したため中止となり鹿児島に帰ってきたとのことです。

明治10年1月5日になると私学校から迎えの人がきて隆盛が出発し、小兵衛も兄についていき学校へ向かったが、それが二人との今生の別れになったと証言しています。

寅太郎、午次郎、酉三の三人は下人に連れられ磯(鹿児島県磯市)まで行き、隆盛たちを見送ることができたそうです。

西南戦争が起こると松子たちは西別府に非難していたため無事でしたが、西郷家の屋敷は焼失してしまったそうで、のちに従道が再建してくれたと語っています。

松子はこの屋敷で幸吉や糸、菊次郎、寅太郎たちと一緒に暮らします。1898年になると糸が東京に居る寅太郎と同居することになり、1918年には息子の幸吉に先立たれます。

1919年寅太郎が病没すると、松子は寅太郎の子たちを引き取り養育しました。
鹿児島で西郷家を守り続けた松子は1943年にこの世を去りました。享年86。

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