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西郷従道(じゅうどう)海軍大臣、海軍大将など要職を歴任した隆盛の弟

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西郷従道(さいごうじゅうどう)*西郷従道

西郷隆盛の2番目の弟が従道です。従道は1843年生まれなので隆盛より15歳下になります。幼名は龍助。

従道が9歳のときに父吉兵衛と母満佐が相次いで亡くなったため、従道たち兄弟は兄隆盛によって養育されました。

従道は15歳で出家して茶坊主となり島津斉彬に仕えると龍庵を名乗ります。

お茶や生け花の作法を学び、伊地知正治から論語の講義を受講しますが、4年で還俗して名を慎吾に改めました。

幼少期から腕白であった従道は学問よりも剣術を好んだようです。精忠組に入ると過激な行動をとる有馬新七らに与して寺田屋騒動では謹慎処分を受けました。

20歳のときに勃発した薩英戦争では西瓜売りに扮し、英国艦船に乗り込む決死隊に志願しますが、作戦は中止となり命拾いをします。

沖永良部島に流されていた隆盛が召喚され藩政に復帰すると、従道も薩摩藩士として戊辰の戦いに身を投じます。鳥羽伏見の戦いで受けた銃創により耳が不自由になったようです。

1869年には諸外国の軍政を研究するため山県有朋らとともに渡欧し、翌年帰国すると兵部大丞、ついで兵部少輔に任命されます。

明治6年の政変で隆盛は参議の職を辞し鹿児島に帰国しますが、従道は政府に残り1874年の台湾出兵では日本軍の指揮を執りました。

1877年隆盛が西南戦争で戦死、翌年には大久保利通が紀尾井坂で暗殺されます。

従道は隆盛、利通亡き後、薩摩閥のリーダーのひとりとして政府内で出世を重ね、陸軍卿、海軍大臣、内務大臣、海軍大将などの要職を歴任しました。

1898年には元帥の称号を授かりますが、1902年胃がんのため目黒の自宅で病没しました。享年62。

西郷従道がここまで出世できたのは、兄隆盛のネームバリューのおかげだともいえますが、本人の資質も大いに関与していると思われます。

従道は豪胆な性格でありながら茶目っ気もあったようです。周囲の人たちにちょっとした悪戯をするなど、くすっと笑ってしまうエピソードがたくさん残っています。

茫洋としながらも芯があり、飾らない性格であったため敵が少なく、担ぎやすかったと思われます。

また、長州閥の重鎮となった山県有朋とは共に渡欧した経験があり、良好な関係を築いていたようなので、このことも出世の要因になったのでしょう。

従道は1895年に侯爵を授爵していたので、西郷家は華族に列せられ侯爵家となります。

従道と妻清子の間には11人の子どもがいました(庶子や養子も含む)

西郷従道と清子の系図*西郷従道系図

従道の子のうち男子の多くは陸軍や海軍の軍人になっています。

長男の従理(じゅうり)は、留学先のワシントンで腸チフスに感染し10歳という若さで病没したため、西郷家の家督は次男の従徳(じゅうとく)が継ぎました。

四男の従義(つぐよし)の妻は山本権兵衛の娘なミです。従義はのちに海軍大将になる上村彦之丞(かみむらひこのじょう)の養子となり、彦之丞没後に上村男爵家を相続しました。

七男の従志は小松帯刀の孫重春の養子となり小松伯爵家を相続しました。

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