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西郷隆盛と愛加那の子 菊次郎・菊子

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識


西郷隆盛の妻 愛加那(あいかな)*愛加那(あいかな)

西郷隆盛の2番目の妻が愛加那(あいかな)です。

安政の大獄で幕府に追われた西郷が身を隠すため潜居した奄美大島で二人は出会いました。

愛加那は奄美大島の有力者 龍佐民の一族で、元の名を於戸間金(おとまがね)といいます。

西郷の監視役であった間切横目の得藤長(とくとうちょう)と龍佐民が相談のうえ、龍一族の中でも美貌の持ち主であった於戸間金との結婚を西郷にすすめたとされています。

初めは断っていた西郷ですが、於戸間金の美しさに惹かれたこともあり、申し出を受け龍佐民夫妻の媒酌で婚儀をあげました。

西郷との結婚を機に於戸間金は愛加那と改名します。二人の夫婦仲は良好で、西郷は来客中でも愛加那をそばに置き撫でたりしていたそうで、居合わせ人は目のやり場に困ったという逸話が残っています。

愛加那は西郷の髪を整えるときに抜け落ちた髪の毛を保管していたそうで、のちにこの髪を分析したところ、西郷の血液型はB型だと判明しました。

西郷は愛加那のために新居を建設しますが、完成した翌日に薩摩から帰国命令が届きました。

島妻(あんご)を薩摩に連れ帰ることは禁止されていたため、西郷は愛加那と子を残し帰国したのです。

西郷は奄美大島を離れるにあたり、畑と水田を一反ずつ購入して愛加那に残しました。

西郷と愛加那の結婚生活はおよそ2年でしたが、ふたりの間には菊次郎と菊草が誕生しています。

西郷菊次郎(さいごうきくじろう)第2代京都市長*西郷菊次郎(さいごうきくじろう)

菊次郎は9歳、菊草は13歳のときに奄美大島を離れ、薩摩の西郷家に引き取られますが、隆盛が愛加那に宛てた手紙が残っています。

「アメリカで暮らしている菊次郎から写真が届いたのであなたに送ります。菊次郎と甥の宗二は二人とも元気にやっているとのことです。わたしも年のせいか菊草のことを思い出します。菊草を貰い受けたいのです。菊次郎や頼りになる人も居るので菊草のためにもよかろうかと思います。菊草が嫌がり、母のあなたも反対ならばよこさなくてもかまいません」

菊草を西郷家で引き取りたいことを申し出る手紙ですが、奄美大島でひとり残されてしまう愛加那を気遣い、嫌なら断ってもかまわないと記しています。

愛加那は断腸の思いで菊草を薩摩に送りました。

隆盛の手紙にもあるように、菊次郎は西郷家に引き取られたあと12歳のときに、従弟の宗二(隆盛の妹 市来琴の子)と一緒にアメリカへ留学しています。およそ二年半学び帰国すると、17歳で西南戦争を迎えました。

西南戦争では父隆盛に従い出征しますが、銃弾を受け右足の膝下を切断する重症を負いました。戦後、菊次郎は母の愛加那に手紙を送り父の死と自分の負傷を伝えています。

1880年に里帰りした菊次郎は1年ほど母と暮らし、その後は東京に出て外務省へ出仕しました。

1887年になると再びアメリカに留学します。

1895年台湾赴任が決まると、菊次郎は再び奄美大島を訪れ母の愛加那に会っています。

1902年畑仕事の最中に倒れた愛加那が66歳でこの世を去ります。

菊次郎は1904年からおよそ7年間京都市長をつとめ、退官後は鹿児島に帰り島津家の施設の館長をつとめますが、1928年自宅で病没しました。享年68。

菊次郎と妻久子の間には7男7女が誕生したようですが、すべて実子かどうかは不明です。

菊次郎の次男隆治(たかはる)は容姿が隆盛にそっくりだったといわれています。四男隆泰(たかやす)の子隆文(たかふみ)は現代の名工に選ばれた陶芸家です。

菊次郎の妹菊草に関しては史料があまり存在していません。

13歳で西郷家に引き取られた菊草は名を菊子と改め、西南戦争の前年に17歳で大山巌の弟大山誠之助(せいのすけ)と婚約しますが、誠之助は西南戦争で薩軍に加わったため懲役刑を受けました。

釈放後、誠之助と結婚した菊子は誠之助との間に2男2女をもうけますが、誠之助はこれといった定職に就かず兄 巌の世話になっていたようです。

誠之助は借財を抱えていたようで、生活に窮した菊子の子どもたちは大山巌に引き取られ養育されました。

誠之助と離れた菊子は京都市長をつとめていた兄菊次郎を頼りました。
1909年京都で病没したようです。享年48。

西郷菊次郎・菊子(菊草)系図*西郷菊次郎・菊子系図