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攘夷過激派VS公武合体派 14代将軍徳川家茂の上洛と天誅の横行

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14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛*14代将軍徳川家茂の上洛

江戸幕府は1612年キリスト教禁教令、1633年奉書船以外の渡航を禁止、1635年日本人の海外渡航禁止、海外在住日本人の帰国禁止など、貿易や出入国に関する制限を強化し、1639年にポルトガル船の入港を禁止したことで鎖国体制を完了させました。

これにより貿易は中国とオランダのみに限定され、外交は朝鮮と琉球の使節団来日による交流のみにとどまります。

以後200年以上鎖国体制は維持されましたが、1853年にペリーが黒船を率いて浦賀に来航すると、翌年にアメリカとの間に日米和親条約を締結して下田と箱館を開港します。

開国に踏み切った幕府は1858年日米修好通商条約を結び、イギリス、フランス、ロシア、オランダとの間にも同様の条約を締結したのです。

鎖国から開国へと政策を転換した幕府に対し朝廷は憤慨します。孝明天皇は大の異人嫌いであり条約の締結に反対をしていたため勅許を与えませんでした。

幕府の大老井伊直弼は勅許を得られない状況での条約締結には消極的でしたが、幕閣内の開国派に押し切られる形で条約に調印したのです。

将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派に敗れた一橋派は条約締結の責任を追求し井伊直弼の失脚を画策しますが、反対に安政の大獄で処分されてしまうのです。

井伊の強権的な政治に憤慨した水戸脱藩浪士たちが桜田門外の変で井伊大老を暗殺!白昼に大老が殺害されるという失態を演じた幕府の求心力は低下し、かわりに朝廷の権威が高まっていきます。

井伊大老暗殺後に老中首座となった安藤信正(あんどうのぶまさ)は14代将軍家茂の正室に孝明天皇の妹和宮を迎えることで朝廷との融和をはかり幕府の権力回復をはかったのです(公武合体)

安藤は「攘夷の実行」を条件に朝廷との交渉を行います。朝廷内でも岩倉具視ら一部の攘夷派公家が和宮降嫁に賛同します。岩倉たちは幕府の政治に介入する絶好のチャンスと考えたのです。

こうして和宮降嫁はまとまり1861年2月に婚礼の儀が行われましたが、そのおよそ1ヵ月前に安藤信正が坂下門で攘夷派浪士に襲われる事件が起こります(坂下門外の変)負傷した安藤は老中を辞任しました。

井伊大老に続き幕閣の中心人物が再び襲われたことで幕府の権威はさらに失墜します。幕府の凋落により政治の中心は江戸から京へと移ります。

朝廷内では公武合体派の公家と攘夷派の公家との間で激しい多数派工作が展開され、そこに薩摩や長州、土佐などの雄藩が加わり政局は混迷していました。

文久2年(1862年)4月 薩摩藩国父島津久光が藩兵1千人を率いて上洛します。この上洛によって政局は大きく動きます。

この時点での島津久光は公武合体派です。薩摩を含む雄藩が幕政に参加できる体制を整えるため朝廷を動かそうとしていたのですが、長州を中心とする攘夷派は幕府に攘夷を迫るための上洛であると勘違いをしていました。そのため久光の入京に合わせ攘夷派の動きが活発化していたのです。

攘夷の実行など考えてもいない島津久光は孝明天皇から攘夷過激派の取締りを命じられると、寺田屋に鎮撫使を送り有馬新七らを上意討ちしたのです(寺田屋騒動

藩内の過激派を処罰したことで朝廷から信頼を得た島津久光は自身が求める幕政改革の勅書を得ることに成功します。

久光と薩摩藩兵は勅使 大原重徳(おおはらしげとみ)の護衛を名目に江戸に向かいます。

一方、計画を妨害された攘夷派は薩摩藩兵のいなくなった京で巻き返しをはかり、その中心となったのが長州の久坂玄瑞と土佐の武市半平太です。

長州、土佐ともに藩内には「攘夷派」「公武合体派」が存在していて藩政の主導権をめぐり激烈な闘争を繰り返していました。

長州藩の場合、直目付 長井雅楽(ながいうた)が建白した「航海遠略策」が藩主毛利敬親によって採用され藩論となっていました。

「航海遠略策」は諸外国と広く通商を行い国力を蓄えるという考え方であり、当初長州藩は開国路線を歩んでいたのです。

これに対し久坂玄瑞など藩内の攘夷派が反発し長井の排斥活動を展開します。

島津久光の卒兵上京を機に京では攘夷派の勢力が優勢になり長井の「航海遠略策」は急速に支持を失っていきます。

久坂たち攘夷派は長井を弾劾し失脚に追い込むと藩論を「破約攘夷」へと転換させることに成功したのです(長井は翌年に切腹)

「破約攘夷」とは天皇の許しを得ずに結んだ不平等条約(日米修好通商条約)を破棄するというものです。長州藩の「破約攘夷」は諸外国との武力衝突もやむを得ないとする過激なものでした。

土佐藩の場合、開国派の吉田東洋(よしだとうよう)と攘夷派の武市半平太(たけちはんぺいた)との間で主導権争いが展開されていました。

山内家は関ケ原の戦いの功績で徳川家康から土佐一国を与えられた経緯から親徳川であり、藩の実権を握っていた前藩主 山内容堂(やまうちようどう)は攘夷派には批判的でした。

藩政を主導したのは山内容堂の信任厚い吉田東洋であり、土佐勤王党を結成して攘夷活動を行っていた武市半平太は劣勢に立たされていました。

武市は吉田の政策に反発していた藩上層部の勢力と手を結ぶと、吉田を暗殺して藩論を攘夷へと転換します。

こうして藩論を攘夷にまとめた長州藩と土佐藩は島津久光一行が江戸に滞在している隙に再び京で勢いを盛り返すと、公武合体派公家の追い落としにかかり、天皇の周囲を攘夷派の公家で固めます。

さらに、幕府に攘夷決行を促すための勅使派遣を画策しこれに成功すると、三条実美(さんじょうさねとみ)と姉小路公知(あねがこうじきんとも)を江戸に派遣したのです。

朝命により攘夷決行を迫られた幕府は勅諚を拝命しながらも「攘夷の具代的な方策は将軍家茂が上洛したうえで奏上する」と回答を引き延ばします。

家茂の上洛をめぐり幕府と朝廷との間で駆け引きが行われますが、朝廷に押し切られる形で翌年3月と決定します。

島津久光の卒兵上京以降、攘夷派に牛耳られた京では天誅と称するテロ行為が横行し、安政の大獄や和宮降嫁に協力した佐幕派、公武合体派の人物たちがその標的になりました。

文久2年(1862年)7月に起きた島田左近(しまださこん)の殺害を皮切りに宇郷玄蕃(うごうげんば)、猿の文吉(ましらのぶんきち)、渡辺金三郎(わたなべきんざぶろう)、森孫六(もりまごろく)、大河原重蔵(おおがわらじゅうぞう)、上田助之丞(うえだすけのじょう)、村山可寿江(むらやまかずえ)、多田帯刀(ただたてわき)、池内大学(いけうちだいがく)、賀川肇(かがわはじめ)、姉小路公知 他多数が天誅の犠牲となります。

家茂の上洛が近づくと天誅はより過激になり、文久3年(1863年)1月に殺害された池内大学の両耳は切り落とされ、公武合体派の公家 正親町三条実愛と中山忠能の屋敷に脅迫状とともに投げ込まれます。恐怖を感じた二人は官職(議奏)を辞任しました。

同じく1月に殺害された賀川肇(かがわはじめ)は首と両腕が切り落とされ、首は東本願寺門前に晒され(東本願寺は徳川慶喜の宿)、腕は千種有文と岩倉具視邸に投げ込まれました。

文久3年(1863年)3月将軍家茂は3千の兵を率いて上洛を果たします。3代将軍家光以来の上洛でした。

家茂は参内して義理の兄にあたる孝明天皇に拝謁します。攘夷を迫る朝廷に対し家茂は5月10日を攘夷実行の期日と上奏したのです。

ただし、家茂も幕閣も攘夷を実行する気はなく期日の5月10日が来ても何の行動も起こしませんでした。

すでに国内には各国の公使館が置かれ、居留地には多くの外国人が居住し、港には軍艦が停泊していました。

一方的に条約を破棄すれば戦争に発展する可能性が高く軍事力の差を考えれば攘夷は不可能だったのです。諸藩も様子見を決め込む中、唯一攘夷を決行したのが長州藩でした。

5月10日関門海峡を通過していたアメリカ商船に砲撃を行うと、23日にはフランス船、26日にはオランダ船にも攻撃を行いますが、6月に入るとアメリカとフランスの軍艦から報復攻撃を受け、長州藩の艦船は撃沈され砲台はほぼ壊滅状態になりました。

軍事力の差を見せつけられた長州藩では庶民から兵を募り奇兵隊などの諸隊を編成すると破壊された砲台の整備を行い海峡の封鎖を継続します。

さらに、朝廷内の攘夷派公家たちが孝明天皇の大和行幸を強行し、天皇親政による攘夷の実行を画策したのです。

これを阻止するため朝廷の公武合体派、薩摩藩、会津藩が手を結び八月十八日の政変が勃発したのです。

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