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西郷吉二郎(きちじろう)五十嵐川の戦いで戦死した隆盛の弟

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西郷隆盛は7人兄弟の長男で、弟が3人妹が3人います。すぐ下の弟が吉二郎です。

吉二郎は1833年生まれなので隆盛より5歳下になります。

隆盛と同じく二才頭(にせがしら)になったことから人望もあったようです。

島津斉彬に見出だされ国事に奔走する隆盛に代わり西郷家の家政を取り仕切ったのが吉二郎でした。

元々家禄の少なかった西郷家の家計は、隆盛の政治活動資金の工面などもあり相当苦しかったようです。

隆盛が徳之島沖永良部島に流され家禄が没収され、さらに弟の信吾(従道)が寺田屋騒動に加わった罪で謹慎処分を受けると、藩の役職に就いていた吉二郎と末の弟小兵衛(こへえ)も遠慮処分が下され西郷家の収入は大幅減となります。

吉二郎は農作業にいそしみ弟や妹を養育しながら家計を維持しました。

その後、沖永良部島から召喚された隆盛は軍賦役に任命され、禁門の変では薩摩藩兵を指揮し、第一次長州征伐では征長総督参謀となり事態の収拾をはかりました。

これらの功績が認められ家禄が増加したことで西郷家の家計は回復しました。吉二郎の苦心が報われたことになります。兄の活躍により吉二郎も役職に復帰します。

戊辰戦争が起こると吉二郎も出陣し、番兵2番隊監軍として越後での戦いに参戦しますが、五十嵐川の戦いで腰に銃弾を受け負傷すると、柏崎の病院に収容され手当てを受けますが、慶応4年8月14日(1868年9月29日)帰らぬ人となりました。享年36歳。

吉二郎戦死の報告を受けた隆盛は悲しみのあまり断髪したとされています。

吉二郎の遺族には扶持米70俵(30年間に限る)が下賜されました。

吉二郎と先妻マスとの間には美津(みつ)と勇袈裟(ゆうげさ)が誕生しましたが、マスが病没したため、吉二郎は仁礼園(にれいその)と再婚します。

二人の子は園が育て、勇袈裟は成人して隆準(たかのり)を名乗りました。隆盛は隆準を分家させ吉二郎の跡を継がせました。

西郷吉二郎系図(さいごうきちじろうけいず)*西郷吉二郎系図

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