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女紅場(にょこうば)・新英学級及女紅場

京都の町は、禁門の変、鳥羽・伏見の戦いで戦場となり、さらに明治政府による東京遷都によって活気を失っていました。京都の復興は新政府にとっても早急に取り組まねばならない課題であり、そのための人材を探していたのです。


新政府は「管見(かんけん)」において、憲法の制定、三権分立、女子教育の必要性を唱えた山本覚馬に京都の復興を託します。京都府大参事河田景与(河田佐久馬)は、権大参事槇村正直(まきむらまさなお)に山本覚馬を推薦し、槇村は京都府の顧問として覚馬を迎えるのです。


欧米先進国にならい女性教育に力を入れる新政府は、1872年2月 東京に「官立女学校(東京女学校)」を設立します。覚馬のいる京都でも、同年5月に「女紅場(にょこうば)」が開校します。


女紅場の正式名称は「新英学級及女紅場」と言います。華族(元公家、元大名)や士族(元武士)の子女に英語、裁縫、機織、お茶、活け花などの知識や技術を教える公立の学校でした(のちに一般女性にも開放されます)現在は京都府立鴨沂高等学校(おうきこうとうがっこう)として存在しています。


「新英学級及女紅場」の教育レベルは相当高かったようで、教授陣も一流の人を招いていました。
茶道・・・裏千家の千玄室
活け花・・・池坊専正
日本画・・・四条派の望月玉泉
習字・・・平井義直
書道・・・芦沢鳴尾(旧会津藩奥右筆)
舎監、教導試補・・・山本八重

「新英学級及女紅場」を卒業すると教員免状が与えられ、生徒を指導することができたので大変人気があったようです。八重は覚馬の勧めもあり、新設された女紅場で働き始めます。八重は、小笠原流礼法と養蚕、機織りを教えました。


小笠原流礼法は江戸時代に諸藩で採用されていた武家の礼法であり、会津藩の上士であった八重も修得していました。また、養蚕は会津の主要産業であり、養蚕と機織の技術はひととおり身に付けていたのでしょう。女紅場には寄宿舎があり、八重は舎監(寮母)として生徒の世話にあたることになります。

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