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新島襄の遺言(遺書)

新島襄はその生涯において二度遺言(遺書)を書いています。一度目は1884年4月からおよそ一年半にわたる欧米諸国への視察旅行中でした。


大学設立のため視察の旅に出た新島襄は、1884年8月5日、知り合いになったドイツ人とともにサンゴダール峠を登ります。元々心臓に疾患のあった襄は、途中から呼吸困難になり歩行もおぼつかない状態になります。


必死の思いでホテルに辿り着き一命をとりとめます。翌日8月6日、襄はスケッチ用の画用紙に遺言を残します。

◆心臓の病を発症して呼吸困難になった。もしこの地で死んだらミラノ市のトゥリノ牧師に遺体を引き取ってくれるよう依頼してほしい。

◆ミラノで埋葬したら、アメリカボストンのハーディー氏に知らせてほしい

◆私の髪を切って妻(八重)に送ってほしい。

◆同志社への思い

◆両親、妻、友人、ハーディー夫妻への感謝の気持ち

◆主に我が祖国の将来を伏して委ねる


以上の内容を二通の遺書にしたためます。その後、体調は回復し8月9日には医師の診察を受け、数日間の安静と激しい運動はしないようにとの忠告を受けます。襄は、視察旅行を続け1885年12月日本に帰国します。


二度目の遺書は、1890年1月21日亡くなる2日前に徳富蘇峰に口述筆記させたものです。

◆同志社は個性を伸ばす教育を行い、天下の人物を養成する

◆金森通倫氏を私の後任とするのは差しつかえない

◆日本人教師と外国人教師の協調

◆私は敵をつくらないよう心掛けてきた。私に対してわだかまりを持っている人がいるのなら許していただきたい。私には一点の曇りもない。

◆私が行ってきた事業は、同志の皆さんの援助によってなしえたものであり、自分ひとりの功績ではありません。ただ皆さんのご厚意に深く感謝をします。


新島襄の遺書は30通あまりあるといわれていますが、その中で重要なものは徳富蘇峰が遺言を筆記し、内容を確認するために朗読をして襄の確認をとり、八重と小崎弘道、徳富蘇峰が捺印したそうです。


この他にも伊藤博文や勝海舟、大隈重信など個人にあてた遺書が残されています。

≪ 新島襄永眠「狼狽するなかれ グッドバイまた会わん」 | | 八重と篤志看護婦(とくしかんごふ) ≫

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