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日向ユキ(ひなたゆき)の証言 萬年青(おもと)

日向ユキ(ひなたゆき)と新島八重
*新島八重と再会した日向ユキ(ひなたゆき)

日向ユキは父日向左衛門と母日向ちかの次女として1851年に誕生しました。父左衛門は会津藩御旗奉行(おはたぶぎょう)の職につく400石どりの上級武士でした(会津戦争時は町奉行)


母ちかの生家は飯沼家で白虎隊士中二番隊で生き残った飯沼貞吉とユキはいとこにあたります。また、ちかの実の姉千重子は家老西郷頼母の妻となっていました。父方のいとこには「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」を執筆した柴五郎がいます。


日向家と山本家は近所であったことから、ユキと八重は幼なじみでした。八重は1845年生まれなのでユキよりも6歳年上でしたが、一緒に近所の高木家へ裁縫を習いに行っていたそうです。


ユキは1944年 94歳で天寿を全うするのですが、晩年になると自らの人生を振返り口述をはじめます。それを息子さんが筆記してまとめたものが「萬年青(おもと)」として残されています。当時の出来事を知る上で貴重な史料となっています。


ユキの証言によると18歳のときに会津戦争が始まります。会津戦争の記憶はユキにとってとても辛いものであり「思い出すだけで涙がでてまいります」と述べています。新政府軍が城下に侵攻した8月23日、ユキは家族とともに城内に入ろうとしますが、門はすでに閉じられていたため入城することをあきらめ、郊外にある百姓の家に避難をして終戦を迎えます。


会津戦争では、父左衛門と兄新太郎を亡くしています。父左衛門は大町口の戦闘で重傷を負い親戚である加須屋家内にある竹やぶで自刃!兄の新太郎は遊撃隊中隊頭として出陣し新政府軍と激闘を展開しますが、肩と腰に銃弾を受け戦闘不能となります。新太郎は部下に命じて自らの首を討たせました。


ユキは父と兄の行方を捜します。親戚の証言により父の最期を聞いたユキは、加須屋家内にある竹やぶで父左衛門の紋付と頭蓋骨を発見します。さらに兄新太郎の部下から兄の最期を聞きます。部下の証言によると、新太郎を介錯した後、戦闘が激しくなったため新太郎の首を稲田に隠したということでした。


さらに村人から重要な証言を得ます。その村人によると犬が新太郎の首を見つけてしまいくわえて持ってきたため処置に困り川に流してしまったとのことでした。ユキは川を必死に探索しようやく兄の首を発見したそうです。こうして父と兄を見つけ浄光寺に埋葬することができたのです。


斗南藩が新設されるとユキと家族は他の会津藩士とともに斗南に移住し野辺地で生活をします。その後、仕事の関係で青森に移住したようです。一年ほど青森で暮らしたユキは知人の雑賀浅(さいがあさ)の依頼を受け雑賀家で奉公するため函館に移ることになります。


雑賀浅(さいがあさ)は会津藩家老である簗瀬三左衛門の娘で雑賀重村と結婚し函館に住んでいました。雑賀夫妻が病気にかかり世話をしてくれる人物を探していたところユキにその話がきたのです。


雑賀家で奉公していたユキに結婚話しがもちあがります。相手は元薩摩藩士で北海道開拓史の内藤兼備(ないとうかねとも)という人物でした。内藤兼備は会津の女性を嫁に迎えたいと希望しておりその相手としてユキの名があがりました。


なぜ内藤兼備が会津の女性を自分の妻に迎えたいと思ったのか?なぜ日向ユキが選ばれたのか?詳しい経緯はわかっていません。徳川宗家の盾となり壮絶な会津戦争を経験し、終戦後も厳しい生活を余儀なくされていた会津の人々。


薩摩は会津に同情的だったといわれてますから、やさしく芯の強い会津の女性を妻に迎えたいと思ったのかもしれません。兼備との縁談を最初は拒んだユキでしたが、やがて兼備の気持ちを受け入れ1872年に札幌で結婚をします。


1887年には新島襄と結婚していた新島八重(山本八重)が札幌を訪れユキと八重は再会を果たすのです。ユキは会津に一度も帰郷しなかったとされています。辛い思い出の残る会津に帰りたくなかったのでしょうか?敵である元薩摩藩士と結婚したことを気にしていたのでしょうか?ユキは1944年 94歳で波乱の生涯を終えるのです。

≪ 西郷頼母(さいごうたのも)一族 二十一名自刃 | | 会津藩から斗南藩(となみはん)へ ≫

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