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母成峠(ぼなりとうげ)、十六橋(じゅうろっきょう)

7月29日に二本松城が落城!奥州街道の守備についていた仙台藩を撤退させたことで、会津攻撃のルートを確保した新政府では、会津を攻めるか仙台、米沢を攻めるかで意見が分かれます。


軍務官判事 大村益次郎(おおむらますじろう)は、、上野戦争での手腕が評価され、新政府の戦略の中心的存在になっていました。大村は、東北での戦争の幹は会津であり、仙台や米沢は枝葉であると考えていたのです。


最初に枝葉を刈ってしまえば、幹は自然と枯れる!として仙台藩、米沢藩の攻撃を優先する戦略をたてます。しかし、前線の司令官であった板垣退助や伊地知正治は、幹を抜いてしまえば枝葉のことは考える必要がなくなる!と主張し、会津への攻撃を進言します。


西国諸藩の兵は寒さに弱く、雪が降る前に何とか会津を降伏させなければ形勢が逆転する可能性もありえることから、大村は板垣、伊地知の意見を採用し、会津へ兵を進めることになったのです。

大村益次郎(おおむらますじろう)
*大村益次郎(おおむらますじろう)

兵力を各地に分散していた会津藩にとって、御霊櫃口(ごれいびつぐち)、中山口、母成峠のルートからも新政府軍が攻めてくる可能性がでてきた状況はまさに危機的であり、兵をどこに配置するのか苦慮します。


会津では、新政府軍は勢至堂口(せいしどうぐち)から攻込んでくると予想し、白河口総督となっていた家老 内藤介右衛門(ないとうすけうえもん)と主力部隊をここに配置します。


御霊櫃口(ごれいびつぐち)や中地口(なかじぐち)、中山口(なかやまぐち)にも兵を配していたため、母成峠には会津藩猪苗代城守備隊と二本松藩からの応援兵およそ300に、大鳥圭介(おおとりけいすけ)の伝習隊を中心とする兵500、合計800の守備隊がいるだけでした。


一方、新政府では、土佐の板垣退助が勢至堂口攻撃を主張しますが、薩摩の伊地知正治は会津の守備が手薄な母成峠を主張!両者譲らなかったためふたつのルートから攻めることを決定します。しかし、兵力の分散は戦いを不利にするとの考えから、伊地知案が採用され土佐、薩摩を中心とする兵3000を母成峠攻略に投入します。


新政府軍の板垣、伊地知と何度も戦闘を行っている大鳥圭介は、これまでの経験から敵が母成峠から侵攻してくる可能性が高いと考え兵力の増員を献策しますが、会津藩首脳はあくまで勢至堂口から攻めてくるという考えを曲げなかったため、大鳥の意見を聞かず援兵を送ろうとはしません。


板垣と伊地知は、母成峠の守備隊が大鳥率いる伝習隊だとの情報を得ます。手強い大鳥隊が相手となるため、板垣と伊地知は入念に敵の陣容を調べたうえで作戦を練ります。まず、中山口を攻撃して敵の目を母成峠からそらし、警戒が薄れたところで大鳥隊を急襲したのです!


三段構えで守る大鳥の陣に対し、三方向から攻め込む新政府軍!板垣と伊地知が指揮する本隊と谷干城、楢崎頼三率いる右翼部隊は大鳥隊と激戦を展開します。新政府にとって誤算だったのは、左翼隊を任されていた薩摩の精鋭部隊が険しい山道に進軍を阻まれ戦いに間に合わなかったことです。


それでも兵力で上回る新政府軍は徐々に大鳥隊を追い込んでいきます。大鳥隊も善戦しますが、兵力不足はいかんともしがたく総崩れとなり退却を余儀なくされます。


8月21日に母成峠を突破した新政府軍は、猪苗代湖北側ルートから会津若松城を目指し進軍します。会津藩にとって猪苗代湖北側ルートの猪苗代城、十六橋は最後の防衛ラインであり、ここを突破されれば若松城下に侵入されてしまうのです!


しかし、会津藩は母成峠から退却する際に自ら猪苗代城に火を放ち焼失させるという失態を犯します。母成峠陥落、猪苗代城焼失の一報を22日早朝に受けた容保は、十六橋を破壊するための兵を送るとともに、自らも陣頭指揮をとるべく出陣します。このとき容保の身辺警護の任についたのが白虎隊士中二番隊なのです。


新政府軍では、母成峠の戦いに遅れ参加することができなかった薩摩藩部隊が汚名返上に燃えていました。川村純義(かわむらすみよし)の4番隊は、先頭をきって猪苗代に進軍!会津兵がいないと知ると一気に十六橋まで兵を進めたのです。

川村純義(かわむらすみよし)
*川村純義(かわむらすみよし)

十六橋は、猪苗代湖北西部から会津盆地を流れる日橋川(にっぱしがわ)にかかる橋で、この橋を渡ると若松城下まで敵の侵入を妨げるものが何もないため、まさに会津藩にとっては最後の防衛ラインなのです。そのため、何としてもこの十六橋を破壊して敵の進軍を遅らせる必要があったのです。


川村隊が十六橋に到着すると、会津兵が橋の破壊にとりかかっている最中でした!川村は会津兵に向かって一斉射撃を命じます!驚いた会津兵も発砲して応戦しますが、兵力で上回る川村隊に押され退却せざるをえない状況になります。


結局、会津は橋を破壊することができず、最後の防衛ラインである十六橋も新政府軍に制圧されてしまったのです。この川村隊の昼夜問わずの進軍と十六橋制圧により、新政府軍は一気に若松城下になだれ込みます。


城下へ侵入された会津藩では、成人男子のほどんどが出兵していたため、城下の屋敷に残っているのは女性、年寄り、子どもたちでした。予想よりも早いスピードで城下に侵攻してきた新政府軍に対して、若松城に入城することができなかった藩士の家族が多数自害するという悲劇が起こるのです。