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新島襄(にいじまじょう)

新島襄(にいじまじょう)は、安中藩士である新島民治の嫡男として1843年に誕生しました。父民治は、安中藩の祐筆を務め江戸で勤務をしていたため、襄は安中藩の江戸上屋敷内で生まれます。


新島家では襄が生まれるまで4人連続で女の子が生まれていました。ようやくできた嫡男に祖父の弁治は喜びのあまり「しめた!」と叫んだそうで、そのため「七五三太(しめた)」と名づけられたそうです。


襄は13歳のときに、藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)の命令で蘭学を学ぶことになります。1860年に築地の軍艦操練所に入り航海術を学び、1862年には帆船快風丸(かいふうまる)で航海実習を経験します。


襄は「アメリカ合衆国の歴史」や「聖書」を読むことでアメリカという国に強い憧れを抱くようになります・海外の進んだ技術や文明を直に学びたいという思いが膨らみとうとう密航を計画するにいたるのです。


当時の日本は鎖国中であり、幕府の許可がなくては出国することができませんでした。密航が発覚すれば重い罪にとわれます!快風丸に乗船して函館に上陸した襄は福士卯之吉(ふくしうのきち)の協力を得てアメリカ商船ベルリン号で日本を脱出します。上海でワイルドローヴァー号に乗り換え、1865年6月ようやくアメリカボストンに到着したのです。

新島襄(新島七五三太)
*アカデミーで学んでいたころの新島襄(新島七五三太)

新島襄の本名は、新島七五三太(新島敬幹)ですが、この密航の船中で「ジョー」と呼ばれていたことから、日本に帰国後は新島襄を名のるようになりました。襄はワイルドローヴァー号の船主であったハーディー夫妻にキリスト教を学びたいという趣旨の手紙を送り協力を求めます。


国禁を犯してまで学びたいと願う襄の熱い思いに感銘を受けたハーディー夫妻は襄の支援を約束します。襄はハーディーの母校であるフィリップス・アカデミーに2年間通い、さらにアーモスト・カレッジに進学後、アンドーヴァー神学校へ入学するのです。


1871年には、駐米少弁務使(現在の駐米大使)であった森有礼(もりありのり)と面会するチャンスが巡ってきます。森有礼は、襄の学識や人柄に感銘を受け旅券と留学免許状の発行を斡旋します。森有礼の尽力で襄は日本国の正式な留学生となることができたのです。


1872年になると岩倉使節団の通訳としてヨーロッパ諸国の教育制度視察に同行し木戸孝允と出会います。木戸と面識を持ったことは襄にとって幸運であり、後に同志社英学校の設立に木戸の助力を得ることになります。


アンドーヴァー神学校を卒業し、牧師の資格を取得した襄は1874年に宣教師として帰国すると、大阪で布教活動を行う宣教師ゴードン宅に身を寄せ学校設立に向け活動を開始するのです。