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川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)

川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)は、1863年11月出石藩の医師の家に生まれました。蘭学を学び江戸では若手の洋学者として名がとおっていたようです。


江戸に遊学していた山本覚馬と知り合い覚馬が会津に帰藩して蘭学所を設立すると川崎尚之助も会津を訪れ覚馬の家に寄宿するようになります。


尚之助の学識を高く評価していた覚馬は蘭学所の教授に推薦しますが、藩上層部はこれを認めなかったため自分の俸禄の一部を尚之助に与えていたようです。


尚之助の元の名は正之助でしたが、会津藩祖保科正之と似ていたため蘭学所の教授として認められたのを機に尚之助に改名したのです。


尚之助は洋式銃や大砲の研究、開発を行い火薬の改良などにも着手します。会津藩銃砲の洋式化に貢献した功績により砲術頭取に登用された尚之助は1865年八重と結婚します。


会津戦争では砲術を駆使して勇敢に戦いますが、圧倒的な軍事力の差に敗戦を喫し会津藩は降伏を余儀なくされます。尚之助は他藩出身者であったことから若松城落城時に他藩からの援兵とともに退去したというのが通説でしたが、近年の研究により別の説が浮上してきました。


尚之助は会津戦争時すでに会津藩士となっていて、落城後は他の会津藩士とともに東京に護送され謹慎していたというのです。さらに1869年に会津藩は斗南藩として家名再興が許されると翌年には旧会津藩士たちが斗南に移住しその中に尚之助もいたのです。


極寒の地斗南での生活はとても厳しくそこで詐欺事件に巻き込まれてしまい裁判を受けるため東京へ連行されます。極貧の生活から体調を崩した尚之助は肺炎を併発し1875年3月20日東京の病院で死去したとされています。享年39歳。


ここで疑問に思うのは八重との夫婦関係がいつごろ破綻したのかということです。尚之助が斗南に移住したのが1870年ごろとされていますが、何故八重は一緒に斗南に行かなかったのでしょうか?尚之助の消息を知らなかったということも考えられます。


死んだと思っていた覚馬が京で生きていると知り八重と家族が京に向かったのが1971年のことです。尚之助の消息を心配しつつ京へ旅立ったのか?それとも消息を知ったうえで夫よりも兄を選んだのでしょうか?それともすでに夫婦関係は解消していたのでしょうか?


八重が新島襄と結婚したのは1876年ですが、このときすでに尚之助は死亡しているため八重の再婚には何ら問題はありません。


八重と尚之助の結婚生活については、そもそも結婚じだい成立していたのか?という疑問があったのですが「川崎尚之助の妻八重」と記載してある史料が発見されたことから結婚していたことは確かなようです。しかし、結婚した経緯や夫婦仲、離婚の時期などについてはまったくわかっていません。謎だらけなのです。