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会津藩から斗南藩(となみはん)へ

一ヶ月の籠城戦を戦った会津藩は、ついに新政府に降伏をします。1868年9月23日には鶴ヶ城を明け渡し、藩主松平喜徳(まつだいらのぶのり)と前藩主松平容保(まつだいらかたもり)は、滝沢村にある妙国寺で謹慎したのち、東京へ護送されます。


喜徳は久留米藩、容保は鳥取藩の屋敷でそれぞれ幽閉され新政府からの処分を待ちます。新政府は容保父子の死一等を免じる代わりに、戦争首謀者三名(田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛)の処刑を決めます。田中土佐、神保内蔵助はすでに自刃していたため、萱野権兵衛(かやのごんべえ)の切腹(1869年5月18日照姫の実家飯野藩保科邸で自刃)をもって会津藩への処分を終わらせたのです。


鶴ヶ城開城後、会津藩士たちは猪苗代で謹慎生活を送っていましたが、12月に入ると東京と越後高田に移されます。その間、家臣たちは家名再興を新政府に対し働きかけ、1869年9月には久留米藩、鳥取藩で永蟄居処分となっていた喜徳と容保が赦免されます。さらに、11月4日には松平家の家名再興が許されるのです。


新政府は、新たな領地として猪苗代と下北半島(どちらも3万石)を提示しますが、旧会津藩首脳は下北半島を選びます。猪苗代は会津藩の旧領でありよく知った土地であるが故、この地で3万石程度では家臣を養うことはできないと考えたのでしょう。同じ3万石でも広大な土地を有する下北半島であれば、新たに開墾すれば実質石高は3万石以上になるとの期待から下北への移住を決断したもと思われます。


新たな藩名は「斗南藩(となみはん)」と決まります。「北斗以南皆帝州(ほくといなんみなていしゅう)」という漢文から取られたもので、北斗七星が輝く地より南は、たとえ最果てでも帝の領土であるという意味です。

山川浩(やまかわひろし)
*斗南藩 権大参事 山川浩

「斗南藩(となみはん)」の藩主には、松平容保の嫡男容大(かたはる)、権大参事(ごんのだいさんじ)には山川浩(大蔵から浩に改名)、少参事に広沢安任(ひろさわやすとう)と永岡久茂(ながおかひさしげ)が就任します。

広沢安任(ひろさわやすとう)
*斗南藩 少参事 広沢安任

旧会津藩士と家族のうち7割にあたるおよそ1万7千人が斗南に移住することになります。斗南藩の表高は3万石ですが、実際は7千石程度しかなく、移住した藩士たちは極貧の生活を余儀なくされます。


斗南藩では、新たな農地を増やすため開墾を推奨しますが、極寒の気候により作物はほとんど育たず深刻な食糧不足に陥ります。藩士たちは大豆、豆腐のおから、山菜、植物の葉、根っこなど食べられるものは何でも食べたそうです。


地元の住民にとっては、突然大勢の人が移住してきて、ありとあらゆる物を食べつくすので迷惑していたのでしょう。そのため、斗南藩士のことを「ゲダカ(毛虫)」「ハトザムライ(鳩侍)」と呼び侮蔑していたそうです。


過酷な生活の中で、体力のない老人や子供が犠牲になり亡くなる人も少なくなかったようです。1871年8月29日には廃藩置県が断行され、斗南藩は消滅!斗南に残る者、会津に戻る者、東京に移住する者・・・生活の糧を求めて藩士たちは進む道を決めていくのです。

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