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梶原平馬(かじわらへいま)とスネル兄弟

鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は、故郷会津に帰国します。藩主松平容保は家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り新政府に対して恭順の意を示しますが、藩内には強硬派が多数いたため藩論をまとめることができない状況でした。


会津藩では新政府との戦いに備え家老梶原平馬(かじわらへいま)が軍備の調達を行っていました。梶原平馬は、会津藩家老内藤介右衛門信順の次男で、梶原家に養子として入ります。内藤家を継いだ兄信節も家老となり兄弟ふたり藩の重役として政務に奔走します。


梶原平馬は鳥羽・伏見の戦い後、長岡藩士河井継之助(かわいつぐのすけ)に接近します。会津藩にとって物資の補給路となる港をもつ越後は要地であり、長岡藩と連携を深めていきます。梶原は武器調達のため河井継之助からスネル兄弟を紹介されます。


スネル兄弟の兄ジョン・ヘンリー・スネルはプロシアの書記官、弟のエドワルド・スネルはスイス総領事の書記官を務めていましたが、書記官を退任しスネル商会を設立して武器の販売を行っていたのです。


河井継之助はスネル兄弟から元込め銃とガツトリング砲2門を購入、梶原も新式銃700挺と弾薬を買付け、これらを越後に運ぶことに成功します。梶原はさらに兄ヘンリーを軍事顧問として会津に迎えます。容保はヘンリーに平松武兵衛の名前と屋敷を与え、女中としておけいが仕えることになったのです。


新政府軍は奥羽鎮撫総督府軍を東北に派遣し、会津藩主松平容保を死罪、庄内藩主酒井忠篤(さかいただずみ)を蟄居謹慎とする処分を東北諸藩に告げます。


仙台藩、米沢藩を中心とする諸藩は容保を助命するための条件を模索します。会津藩では容保の蟄居謹慎、領土削減、戦争責任者の処刑という条件を受け入れ、新政府との交渉を仙台藩、米沢藩に委任します。


仙台藩、米沢藩は以上の条件を明記した嘆願書を奥羽鎮撫総督府に提出しますが、総督府はこれを一蹴!仙台藩に対して会津攻撃を厳命するのです。総督府の高圧的な態度に憤慨した仙台藩士らが、下参謀世良修蔵を殺害したことで東北諸藩は新政府と戦うことを決意します。


河井継之助と親しい関係を築いていた梶原平馬は、奥羽越列藩同盟にも積極的に関与し同盟の締結に尽力しました。梶原平馬は、山川大蔵とともに会津藩の中心的な存在となり会津戦争を戦うことになるのです。