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伊勢時雄(いせときお)・横井時雄(よこいときお)

横井時雄(よこいときお)・伊勢時雄(いせときお)
*左が伊勢時雄(横井時雄)、一番右の女性が妹のみや(同志社第8代総長海老名弾正の妻)

伊勢時雄(いせときお)は、1857年熊本藩士である父横井小楠の長男として誕生します。時雄の母と徳富蘇峰、蘆花の母は姉妹のため、時雄と蘇峰、蘆花兄弟は従弟になります。


父 小楠は、熊本藩の藩政改革を唱える実学党の主要メンバーでしたが、対抗勢力との政争や内部分裂により改革は挫折します。小楠の思想を高く評価していた福井藩は小楠を顧問に迎えます。


幕府の政治総裁職に就任していた松平春嶽の顧問として幕政にも参加するようになります。小楠の「国是三論」「国是七条」は幕末の志士に大きな影響を与え、坂本龍馬の「船中八策」や山本覚馬の「管見(かんけん)」は「国是七条」を参考にしてアレンジを加えたものだといわれています。


小楠は、維新十傑(横井小楠、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、木戸孝允、前原一誠、大村益次郎、広沢真臣、岩倉具視、江藤新平)に選ばれるほど名声が高く、新政府に招かれ参与に就任します。


しかし「小楠は日本をキリスト教化しようとしている!」と思い込んだ十津川郷士により1869年に暗殺されてしまうのです。父を暗殺された時雄は、姓を伊勢に変え伊勢時雄と名乗ることになります。


時雄が学んでいた熊本洋学校が廃校になると熊本バンドの一員として同志社英学校に転入して新島襄から教えを受けるのです。同志社英学校卒業後は愛媛県今治市で伝道活動を行い、アメリカン・ボードの宣教師アッキンソンが設立した「今治協会」の初代牧師となります。


時雄は、山本覚馬の娘みねと1881に結婚します。1883年には長女悦子が生まれ、1887年には長男平馬が誕生しますが、みねは産後の肥立ちが悪く24歳の若さで亡くなってしまうのです。長男平馬はのちに山本家の養嗣子となったそうです。


時雄は1889年に横井姓に戻り、1897年には同志社大学第3代総長に就任し、1903年になると衆議院議員となります。しかし、1909年に日本精糖汚職事件に関わったとして重禁固5ヶ月の刑が言い渡され議員を辞職します。


脳溢血で倒れたのち闘病生活を送りますが、1927年療養先の別府で亡くなります。
享年70歳。